隅田川の大花火 江戸時代からの夏の風物詩

毎年7月の最終土曜日に隅田川で大花火大会が開催されます。

今回は隅田川(両国)の大花火についてのお話です。

まずは日本における花火の歴史をおさらいしておきましょう。

前回見たように花火が日本に伝わったのは戦国時代でした。

夜空に花火が二つ上がる画像
【夜空に咲く光の華。花火の音に心が弾みます。】
隅田川花火大会のポスターの画像
【令和元年の隅田川花火大会ポスター。華やかさに期待が膨らみます。】

戦国時代には主に通信用に使われていた花火を日本で最初に鑑賞したのは徳川家康でした。

その後、日本で花火つくりが始まると急速に拡大していったことは前回にみたところです。

花火で遊ぶ子供たちの画像
【「子供遊 花火の戯」作者・制作年代不明 より
子供たちは花火で遊ぶのが大好きだったようです。】

まもなく花火は江戸に持ち込まれることとなります。

当初は大名の藩邸の庭など、いわばセレブが内輪で楽しむために花火が催されていました。

これが瞬く間に江戸市中に広がって花火売りが撚、線香、流星、鼠などの花火を売り歩くようになります。

しかし幕府は、市中での花火は火事の原因になるとことから慶安元年(1648)の第一回禁令をはじめとして五回ほど禁令を出しています。

これは逆に、花火が大いに流行している証拠ともいえるもので、江戸っ子の花火熱は消えることはありませんでした。

そのため、幕府も承応元年(1652)の禁令では、町中での花火は全面的に禁止するものの大川端(隅田川沿い)では許可せざるを得なくなります。

歌川広重「両国納涼花火」両国橋の上には鈴なりの人、船もたくさん出てにぎやかな画像
【歌川広重「両国納涼花火」弘化4~嘉永5年(1847~1852) 両国橋の上には鈴なりの人、船もたくさん出てにぎやかです。花火は現在のものよりかなり地味です。】

一方、江戸っ子たちの人気に支えられて花火の進化も留まるところを知りません。

万治2年(1659)大和国篠原村(現奈良県吉野郡大塔村)から江戸に来た弥兵衛は、葦の管に火薬を詰めて、燃焼時に星(火花)が飛び出す花火の開発に成功して大いに評判を得ました。

この成功を基に、弥兵衛が作ったのが鍵屋です。

また、弥兵衛の開発した花火が現在の玩具花火(手持ち花火)の祖型となっています。

歌川豊国三代・歌川広重二代(合筆)「江戸自慢三十六興 両国花火」元治元年(1864)の画像。
【歌川豊国三代・歌川広重二代(合筆)「江戸自慢三十六興 両国花火」元治元年(1864)】

先ほど見た承応元年(1652)の禁令で逆に一部が幕府から公認されたことで、元禄期から享保期までは江戸の花火は隅田川を中心としておおいに発展を見せました。

夏の納涼時期には隅田川で客寄せのために茶屋花火が行われたり、花火船が船遊びを楽しむ客の求めに応じて花火を見せて代金を取るようになります。

花火は次第に華やかさを増していくものの、まだ木炭・硫黄・硝石を使った小規模なのもので、線香・流星・鼠・蝶・火車などの「立花火」と呼ばれるものが主流でした。

花火問屋山縣商店の外観の画像
【花火の専門店、山縣商店(東京都台東区蔵前2丁目)。花火の本場ともいわれた蔵前で現在も続く数少ない花火専門店。ブリキのおもちゃも販売しています。】
山縣商店のダミー尺玉の画像
【山縣商店では、こんなものまで売っています。カラの尺玉は何に使うのでしょうか?】

そして現代の一番人気、打ち上げ花火が登場するのは享保18年(1733)、鍵屋によって行われた両国の大花が最初と言われています。

これは、前年に関西を中心とする大飢饉が起こったこと、また江戸でコロリ(コレラ)が流行して多数の死者が出たために、犠牲者の冥福を祈るためと言われていますが異論も多く出されています(コレラの日本での流行は文政5年(1822)が最初です)。

いずれにせよ夏に流行しやすい疫病の退散と犠牲者の供養、厄災を払う目的で、両国の水神祭の折に花火を上げたのは間違いありません。

これをきっかけに、川開きで花火を上げるのが年中行事になっていくのでした。

ちなみに、享保18年に七代目鍵屋が打ち上げた花火は20発ほどだったと言われています。

大規模な花火大会だと数万発の花火が上がる今日からすると、大変のどかに感じますね。

そして大変な額になる花火打ち上げの費用は、船宿と両国近辺の茶屋が負担するならわしでした。

この伝統は、なんと昭和に入るまで続き、柳橋料亭組合と柳橋芸妓組合が負担していたのです。

松本商店の外観の画像
【玩具問屋が並ぶ蔵前では、夏のシーズンを中心に花火を売る店が多くありました。松本商店(東京都台東区蔵前2丁目)は今も続く貴重なお店です。】

一方で、打ち上げ花火が登場する頃には花火の原料にも改良がなされました。

銅粉・鉛丹・樟脳などを混ぜて発色を良くする技術や、使用する鉄をそれまでの砂鉄ではなく鋳鉄に代える工夫もなされます。

使い古した鍋を叩いて砕き、薬研で細かく均質な微粒子に加工して使用していました。

そしていよいよ文化7年(1810)には八代目鍵屋手代清七が分家して玉屋市兵衛を名乗ります。

こうして両国横山町(現在の東京都中央区日本橋横山町)の鍵屋と、両国吉川町(同 東日本橋二丁目)の玉屋が両国の花火を担当して競い合うようにあり、江戸っ子たちから大好評を得るようになりました。

現在でも残る花火の掛け声「玉屋、鍵屋」はこの頃の名残なのです。

小林清親「池の端 花火」(明治14年(1882))の画像
【小林清親「池の端 花火」明治14年(1882) 不忍池に映る花火と町の灯。美しい情景です。】

『甲子夜話』によると、享和年間(1801~04)には打ち上げ花火に何十もの種類や名称があったことが記されていて、花火の発達と普及ぶりがうかがえます。

江戸の人気を二分した花火師の玉屋ですが、天保14年(1843)10月14日に出火類焼を起こして江戸からの追放処分を受けたことにより断絶し、鍵屋単独での両国花火に戻ってしまいました。

隅田川の花火大会、昭和29年(1954)の画像。
【隅田川の花火大会。昭和29年(1954)千住。低い屋並みの向こうに花火が大きく見えています。】

その後、両国の花火は第二次世界大戦と隅田川の河川環境の変化での中断(昭和37年(1962)~52年(1977))があったものの、隅田川花火大会と名称を変えて現在まで継承されて、地域の一大イベントとなっています。(打ち上げ場所が両国橋上流から花川戸へ上流側に約2㎞移動しています。)

みなさんも一度、隅田川花火大会で江戸江戸っ子の夏の風情詩を体験してみてはいかがでしょうか?

この文章をまとめるにあたって以下の文献を参考にしました。

『日本風俗史事典』日本風俗史学会編1979、『国史大辞典』国史大辞典編纂委員会(吉川弘文館、1979~97)、『江戸学事典』西山松之助ほか編 (弘文館、1984)、『江戸東京学事典』小木新造ほか編 (三省堂、1987)、『日本史大辞典』下中弘編( 平凡社、1992)、『日本民俗学大辞典』福田アジオ編 (吉川弘文館、2006)

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