南方熊楠から学ぶ愛される人の条件

5月18日は、1867年(慶応3年4月15日)に博物学者の南方熊楠が生まれた日です。

熊楠は、生物学・民俗学・説話学など多方面にわたって業績を築いた博覧強記な人物で、日本の自然保護運動の先駆けとしても知られています。

そのいっぽうで、あまりにも個性が強く、信じられないようなエピソードに彩られた熊楠の歩みを振り返りながら、独自の研究を支えたものは何だった、そして彼が多くの人に愛される理由を探ってみましょう。

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【アメリカ留学前の南方熊楠(明治19年12月)アメリカ留学時の南方熊楠(明治19年12月)(『学会偉人南方熊楠』中山太郎(冨山房、1943)国立国会図書館デジタルコレクション )より)】

ロンドン遊学まで

南方熊楠は、慶応3年(1867)和歌山城下の橋町に父・弥兵衛と母・スミの二男として生まれました。

父の弥兵衛は金物商から金融業に転じ、地域屈指の富豪となった人物でした。

熊楠は、10歳から5年をかけて『和漢三才図会』を筆写し、その後も和漢の本草書を筆写して暗記しまいます。

明治16年(1883)に上京し、共立学校を経て大学予備門に入学するものの、明治19年2月に退学し、翌明治20年(1887)1月に渡米。

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【1891年アメリカ留学中の南方熊楠(Wikipediaより20220511ダウンロード)】

アメリカでは一時期実業大学や農学校に在籍するものの退学し生物採集や読書で自習、そしてシカゴの弁護士で地衣類研究者のカルキンスの指導で採集や標本作成をして、キューバ島で地衣類の新種を発見しました。

明治25年(1892)9月にイギリスに渡り、ロンドンで暮らして大英博物館などで自学自習しています。

明治33年(1900)10月に帰国、和歌山市の弟宅に住んでいた頃、ロンドンで親交のあった孫文が来訪しました。

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【孫文(『孫文先生東游紀念写真帖』日華新報社 編集・発行、大正2年 国立国会図書館デジタルコレクション)より】
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【熊楠(後列左)と孫文(中央)。孫文の両脇に熊楠の弟たち、孫文の前に熊楠の甥。後列右は横浜華僑の温炳臣(Wikipediaより20220511ダウンロード)】

田辺時代

その後、南紀勝浦を拠点に熊野山中の生物調査に数年間従事したのち、田辺に移って結婚、子どもも生まれて永住し、生物と民俗習慣の調査を行いました。

明治42年(1909)ころから政府の神社合祀令に反対し、神社・森林・生物と良俗美風を守る運動を展開し、のちに廃案に追い込んだのです。

また熊楠は、イギリス時代から国内外で多方面にわたる多種多様な論考を発表しました。

なかでも雑誌『太陽』に掲載した『十二支孝』で博識ぶりを発揮、民俗学でも柳田国男らと交流して大きな影響を与えたほか、生物学でも菌・粘菌・淡水藻で大きな成果を残しました。

そして昭和4年(1929)昭和天皇を神島に招いて、召艦長門艦上で進講するとともに粘菌の標本を献上したのを自身の栄誉としています。

昭和16年(1941)12月29日、萎縮腎で亡くなりました。享年75歳。

日本人の可能性の極限

熊楠は稀代の天才と言われた人物で、その一生はさまざまな伝説的逸話に彩られています。

ここではその中でも、熊楠と彼を愛した人たちのとの関係を中心にみてみましょう。

日本民俗学の父・柳田国男は南方熊楠を評して「どこの隅を尋ねて見ても、是だけが世間並と異父物が、ちょっと捜しだせそうにも無い」「私などは日本人の可能性の極限かと思ふ」と記しています。

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【柳田国男(出典:近代日本人の肖像)】

何事にも極端な性格は学問では利点となりますが、社会生活上は障害となるのは明らかで、例えばイギリス留学時には大英博物館で暴力沙汰などをたびたび起こして利用禁止にされました。

熊楠は世間一般の常識から逸脱した人物といえますが、もちろん本人もこのことを自覚していて、自分が学問するのは、自分が「狂人」とならないためと述べています。

このような人物でしたので、熊楠が生涯、定職につかなかったのもうなずけるところ。

それでも、科学雑誌『ネイチャー』に50回、文化系随時誌『ノーツ・アンド・クイリーズ』に320回あまり掲載されるなど、その研究は世界に知られるものでした。

熊楠を想う人々

じつはこの熊楠も、死後は忘れ去られようとしていました。

その熊楠の記憶を人々に呼び覚ましたのは、ほかならぬ昭和天皇です。

昭和37年(1962)5月の南紀行幸で白浜から神島を遠望してこう詠まれました。

雨にけぶる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ

昭和天皇も、33年前の南方熊楠との出会いが忘れられなかったのでしょう。

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【昭和天皇(『輝く憲政』自由通信社編(自由通信社、昭和12年)国立国会図書館デジタルコレクション)より)】

そのほかにも渋沢敬三や小泉信三など、多くの人々が熊楠という人物に、すっかり魅了されていたのです。

熊楠を支えた人たち

田辺では、雑賀貞次郎や野口利太郎、喜多幅武三郎など、多くの人々が熊楠を支えましたが、その筆頭ともいえるのが妻・松枝と娘・文枝でした。

それは熊楠も十分にわかいて、その象徴的なエピソードが熊楠は死の直前のものです。

「文枝、文枝」「野口、野口」と叫んだのち熊楠は亡くなりました。

野口理太郎には長男・熊弥の行く末を頼み、文枝には長年研究を手伝ってくれた感謝を伝えたかったのでしょう。

熊楠が亡くなった後も、熊楠が深く愛した妻・松枝と娘・文枝が、熊楠の残した膨大な資料・標本を守り、資料調査に対して献身的に貢献しています。

破天荒な南方熊楠による比類ない業績も、熊楠を愛する多くの人々に支えられたものにほかならず、熊楠自身もこのことを理解して深く感謝していたのです。

多くの人に愛された熊楠ですが、じつは彼の深い愛情を感じていたのかもしれません。

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【小畔四郎と南方熊楠(大正9年8月26日、高野山年金採集宿泊地の一乗院において)(『南方随筆』南方熊楠(岡書院、1926)国立国会図書館デジタルコレクション)より】
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【御進講日の南方熊楠(『学会偉人南方熊楠』中山太郎(冨山房、1943)国立国会図書館デジタルコレクション )より)】

(この文章は、『南方熊楠』中公新書、唐澤太輔(中央公論新社、2015)、『南方熊楠』人物叢書、笠井清(吉川弘文館、1967)および『日本民族大辞典』『国史大辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(5月17日

明日(5月19日

1 個のコメント

  • はじめまして、柳北小学校の卒業生です。
    5月12日日経新聞夕刊、こころの玉手箱欄 現代美術家 宮島達男氏筆を読んでいて旧柳北小学校の文字を発見しました。
    「被爆柿の木2世」を旧柳北小学校の子供たちが植樹したという話が書かれており、その事は知らなかったのでググって見るとこのサイトにたどり着きました。
    懐かしく1から読ませていただいています。
    足跡残させていただきました。
    私も親族も皆、当地を離れましたので帰郷することはありませんが、いつか機会があれば訪問したいと思いました。

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