文禄の役【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編⑫】

前回は、九州征伐をきっかけに、豊臣秀吉の支配体制に組み込まれていく宇久家をみてきました。

今回は、五島家の誕生と朝鮮出兵をみてみましょう。

朝鮮出兵

天正20年(1592=文禄元)秀吉は朝鮮出兵への出兵を命じました。

宇久純玄には第一軍の小西行長に属するとともに先鋒を命じられたのです。

純玄は総勢七百余人が、軍船17艘、属船8艘に分乗して深江の石田浜、現在の石田城付近から旅立ちました。

五島勢の陣容

五島勢は、侍大将に大浜玄雅、軍奉行に太田新左衛門、船手奉行に宗与助、弓奉行に平田雅貞、鉄砲奉行に青方善助、長柄奉行に松尾次郎兵衛という陣容でのぞみます。(『日本地名大辞典』)

その細目は、騎馬27頭(侍大将・軍奉行・旗奉行は各1人、鉄砲・弓・長柄奉行も各1人、使者は3人、用人・大目付各1人、兵騎11人、外科医師ら5人)、歩武者40人、足軽120人、籠持ち・馬口などの小人38人、乗馬2頭(藩主乗用?)、平馬27頭(替え馬?)、下夫208人、船は大小17艘、それをあやつる船頭水夫200人もしくは280人という陣容でした。(『海の国の記憶』)

そして、出陣に当たって、純玄は姓を宇久から五島に替えて、五島純玄と名乗ったのです。

これはおそらく、五島を支配している家であることを秀吉にアピールするためなのでしょう。

小西行長の第一軍

そして五島純玄が属した小西行長を主将とする軍団には、対馬の宗、平戸の松浦、肥前の大村と有馬が参加し、総勢1万8,700人の大軍勢となりました。

小西行長の軍団は、堺の豪商であった小西家とかかわりのあった松浦鎮信や五島純玄、行長がキリスト教徒であったことから、交易とキリスト教を通してつながりがあった有馬晴信、大村喜前をまとめて編成したもので、行長が指揮を執りやすいように旧知の諸将を集めたのでしょう。

釜山地鎮の戦い(「釜山鎮殉節図、Wikipediaより20210829ダウンロード)の画像。
【釜山地鎮の戦い(「釜山鎮殉節図」、Wikipediaより)】

文禄元年(1592)閏4月、名護屋城から出陣すると、6月には釜山に上陸し、西平浦・東莱を陥落させます。

この時先鋒を務めた五島家は敵兵千人余りを斬る活躍を見せますが、いっぽうで自軍も多大な犠牲を払いました。

この五島勢の奮闘もあって、小西行長率いる第一軍は破竹の勢いで進撃し、またたくまに平壌を陥落させたのです。(以上『日本戦史』『岩波講座』『海の国の記憶』)

小西行長は、ライバルの加藤清正との戦功競争に勝って、得意満面だったともいわれています。

平壌の戦い

ところが、翌文禄2年(1593)1月1日、明国遼東の李如松が4万3千の兵を率いて参戦、これに朝鮮軍8千が加わって平壌を包囲したのです。

明・朝鮮連合軍の攻撃の前に小西軍は1,600余人の戦死者を出して平壌は陥落寸前となると、軍議で全軍撤退を決して退却を開始せざるをえませんでした。

撤退戦は朝鮮半島北部の厳しい冬と明・朝鮮連合軍の激しい攻撃が相まって悲惨を極め、負傷者や病人を見捨て、凍傷に苦しみ、親兄弟が打たれるのも見捨てるありさまとなって、ようやく漢城、現代のソウルまで撤退したのです。(以上『日本戦史』『海の国の記憶』)

碧蹄館の戦い

勢いに乗る李如松はそのまま漢城に迫り、ついに1月27日、両軍主力が相まみえる、歴史に名高い碧蹄館の戦いが勃発しました。

小西軍も日本勢の一員として参加、五島純玄ももちろん参戦しています。

日本勢は立花宗茂・高橋直次兄弟の奮闘や小早川隆景・宇喜多秀家両軍の活躍があって、激闘の末、明軍提督李如松が負傷して碧蹄館から敗走し、日本勢が勝利となりました。(以上『日本戦史』『岩波講座』)

李如松像(Wikipediaより20210829ダウンロード)の画像。
【李如松像(Wikipediaより)】

幸州山の戦い

碧蹄館の戦いに勝利した日本勢は、勢いに乗って漢城にほど近い幸州山に籠る朝鮮軍を攻撃します。

ここでは小西行長軍が第一軍となって攻めかかりますが、朝鮮軍の激しい抵抗により、参戦した宇喜多秀家、吉川広家、石田三成の諸将が手傷を負うありさまで、朝鮮軍が撤退したものの、日本勢が敗退したに等しい戦となってしまったのです。(『日本戦史』『海の国の記憶』)

今回は、文禄の役における五島家の戦いをみてきました。

次回では、五島家に突如訪れた悲劇をみてみましょう。

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