日本の近代化を支えた津山の洋学【維新の殿様・津山松平家編②】

前回は、津山の人々にとって、いかに教育が大切かを見た後に、津山の洋学のはじまりとなった宇田川玄髄の涙ぐましい努力を見てきました。

今回は、津山が世に送り出したキラ星の如くあまたの人材を見ていくことで、津山の洋学が日本の近代化を支える様子を見ていきたいともいます。

宇田川玄真(うだがわ げんしん:1769~1834)

この宇田川玄随の養子となって彼の事績を発展させたのが玄真(号を榛斎)で、『遠西医方名物考』『和蘭薬鏡』を記して西洋薬学の翻訳研究に大きな業績を上げました。

それに加えて、玄随の『西説内科撰要』を増補・改訂した事績は、医学のみならず近代的科学の確立にも貢献しています。

『和蘭薬鏡 3巻』(宇田川榛斎訳(須原屋伊八ほか、文政3年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【『和蘭薬鏡 3巻』宇田川榛斎訳(須原屋伊八ほか、文政3年)国立国会図書館デジタルコレクション】

もともとは安岡玄真と名乗り、宇田川玄随の紹介で大槻玄沢に入門、めきめきと頭角を現した結果、未来を嘱望されて杉田玄白の娘を娶り養子にまでなりました。

ところが天狗になったのか、放蕩に走って玄沢から破門されるとともに玄白の娘とも離縁されてどん底に。

心を入れ替えて修養にはげんだ結果、宇田川玄随に認められてその養子となったいきさつを持っています。

一度のしくじりが玄真を一回りも二回りも大きくしたのですね。

「杉田玄白と宇田川玄真」(『杉田玄白の生涯 日本科学の先駆者』中貞夫(小学館、昭和17年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像
【「杉田玄白と宇田川玄真」『杉田玄白の生涯 日本科学の先駆者』中貞夫(小学館、昭和17年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

また玄真は私塾・風雲堂を開いて医学のみならず科学全般の幅広い分野を教えて後進の育成にも努めた結果、多彩な人材を数多く世に送り出しています。

後述する箕作阮甫宇田川榕庵のほか、緒方洪庵(1810~1863、医学者・蘭学者で適塾を開設、福沢諭吉や大村益次郎など有為な人材を多数輩出)、吉田長淑(1779~1824、蘭方医で高野町英の師)、坪井信道(1795~1848、蘭医で長州藩侍医)、佐藤信淵(1769~1850、農学者)、飯沼慾斎(1782~1865、本草学者・蘭医)、青地林宗(1775~1833、蘭学者、『輿地志略』の著者)などなど、日本史の授業で聞いたような名前がずらりです。

「宇田川榕庵」『日本の科学者達』寺島柾史(日本小学館、昭和17年)国立国会図書館デジタルコレクション
【「宇田川榕庵」『日本の科学者達』寺島柾史(日本小学館、昭和17年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

宇田川榕庵(うだがわ ようあん:1798~1846)

玄真の養子となった榕庵は玄真の『遠西医方名物考』『和蘭薬鏡』編集校訂を行ったことから植物学に進み、『菩多尼訶経(ぼたにか きょう)』『植学啓原』を著してリンネの植物分類を紹介するなど日本の近代植物学開祖となりました。

榕庵はさらに、日本で最初の本格的な科学書『舎密開宗』を著して近代科学本質と特徴を正確に認識したうえに、広く紹介した業績も見逃せません。

「舎密開宗」(宇田川榕庵訳(須原屋伊八、天保8年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像
【『舎密開宗』宇田川榕庵訳(須原屋伊八、天保8年)国立国会図書館デジタルコレクション 】
「箕作阮甫」(『苫田郡誌』苫田郡教育会編(苫田郡教育会、昭和2年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像
【「箕作阮甫」『苫田郡誌』苫田郡教育会編(苫田郡教育会、昭和2年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

箕作阮甫(みつくり げんぽ:1799~1863)

箕作阮甫は江戸時代後期を代表する蘭学者です。

宇田川玄真の弟子で、幕府天文方蕃書調所和解御用に任じられて外交文書の翻訳にあたったほか、通訳としても活躍しました。

ペリーが持参したアメリカ大統領の親書を翻訳したのは、前回見たところです。

また、嘉永6年(1853)に長崎に来航した露国使節プチャーチンに使節として対応したほか、日米和親条約など外国との条約交渉にも参画しました。

その活躍は外交分野にとどまらず、安政4年(1857)には種痘所の設立を企画し実現させています。

また、外交・地理・兵学・法学など、ヨーロッパの専門書を翻訳して日本に紹介することで、いろいろな方面で日本の近代化の基礎を作るのを手助けするすばらしい業績をあげました。

「箕作秋坪」(『苫田郡誌』苫田郡教育会編(苫田郡教育会、昭和2年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像
【「箕作秋坪」『苫田郡誌』苫田郡教育会編(苫田郡教育会、昭和2年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

箕作秋坪(みつくり しゅうへい:1825~1886)

箕作阮甫と緒方洪庵の弟子で、のちに阮甫の養子になっています。

文久元年(1861)には福沢諭吉らとともに幕府の文久遣欧使節としてヨーロッパを視察しました。

帰国後は、慶応2年(1866)には樺太国境交渉の使節としてロシアに派遣されるなど、外交分野でおおいに活躍します。

また、明治維新後は明治6年(1874)には森有礼と明六社を創立するなど、民間から日本の近代化に貢献しました。

箕作秋坪については、後の藩邸散歩の章でも取り上げていますので、ぜひご覧ください。

箕作家の学者たち

その後、秋坪の子供たちはみな、優秀な学者となって大活躍しています。

ミツクリザメに名を遺す世界的生物学者の箕作佳吉(1857~1909)、法学者の箕作麟祥(1846~1897)、西洋史学の箕作元八(1862~1919)など、近代日本の学術的発展に大きく寄与したのです。

「文久年間和蘭留学生一行の写真」((津田真道関係文書)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像
【「文久年間和蘭留学生一行の写真」(津田真道関係文書)国立国会図書館デジタルコレクション 前列・右から二人目が津田真道】
「津田真道」(Wikipediaより20210123ダウンロード)の画像。
【「津田真道」Wikipediaより】

津田真道(つだ まみち:1829~1903)

津田真道は明治初期の啓蒙思想家・法学者です。

文久2年(1862)に幕府に命じられて榎本武揚、西周らとオランダに留学。

その後、日本初の西洋法学書『泰西法論』を翻訳刊行するなど明治新政府の法律整備に大きな事績を残しました。

また、神武天皇即位の年を紀元元年とする皇紀を考案したことでも知られています。

衆議院議員をつとめたのち、功績により男爵に叙せられて、貴族院議員になっています。

『泰西国法論 巻1』シモン・ヒッセリング著・津田真道訳(明治8年、三木佐助)国立国会図書館デジタルコレクション
【『泰西国法論 巻1』シモン・ヒッセリング著・津田真道訳(明治8年、三木佐助)国立国会図書館デジタルコレクション 】
「菊地大麓」(『大臣の書生時代』墨堤隠士(明治35年、大学館)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「菊地大麓」『大臣の書生時代』墨堤隠士(明治35年、大学館)国立国会図書館デジタルコレクション 】

菊地大麓(きくち だいろく:1855~1917)

箕作秋坪の次男で、秋坪の生家・菊地家を継承しました。

数学・物理学者で日本における近代数学の開拓者、日本標準時の制定や震災予防調査会創設など大きな業績を残しています。

貴族院議員、東大総長、文部大臣、京大総長などを歴任、のちの男爵を授けられました。

「枢密院議長 男爵 平沼騏一郎」(『輝く憲政』自由通信社編(昭和12年、自由通信社)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「枢密院議長 男爵 平沼騏一郎」『輝く憲政』自由通信社編(昭和12年、自由通信社)国立国会図書館デジタルコレクション】

平沼騏一郎(1867~1952)

「津山の洋学」の最後を飾る人物です。

司法界から政界に進出し、枢密院議長や法務大臣、国務大臣を歴任、昭和4年(1939)には内閣総理大臣となりました。

独ソ不可侵条約締結にあたり「欧州情勢は複雑怪奇」の一語を残して総辞職したのをご存じの方もおられるのではないでしょうか。

第二次世界大戦終了後はA級戦犯となり終身禁固刑で服役中に病死しています。

ここまで津山藩が送り出したあまたの人材についてみてきました。

「津山の洋学」が大変豊かで裾野の広いものであったことが見て取れたのではないでしょうか。

次回からは、大いに発展した津山の洋学が誕生したに背景を知るために、津山松平家の歴史をたどっていきたいと思います。

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