立花家の戦後【筑後国柳川藩立花家(福岡県)56】

前回は、立花家第十四代当主・立花鑑德の一人娘である文子が、島村速雄元帥の次男・和雄とお見合いして結婚を決意するまでをみてきました。

和雄と文子はどのような家庭を築くのでしょうか。

そこで今回は二人の歩む長い道のりについてみてみましょう。

立花伯爵家三代 和雄(かずお・1907~1994)

和雄は、明治40年(1907)5月25日に海軍元帥島村速雄男爵の次男として生まれました。

そして北海道帝国大学農学部林業科卒業すると、帝室林野局に就職して帝室林野局王滝出張所に配属、木曾御料林の管理にあたっていました。(『華族家庭録 昭和11年12月調』

前にみたとおり、昭和9年(1934)に出張所長の大久保寛一子爵の紹介で、立花文子とお見合いをし、昭和10年(1935)4月に結婚して立花家に入り、伯爵立花鑑德の継嗣子となります。

木曾御料林(『日本見学旅行1』中島徳行(金の星社、1934)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【木曾御料林『日本見学旅行1』中島徳行(金の星社、1934)国立国会図書館デジタルコレクション 】

和雄と文子の暮らし

東京で結婚式を挙げた和雄と文子は、後日挨拶をかねて柳川を訪問すると、なんと柳川最寄りの国鉄瀬高駅から立花家の邸宅まで簡易舗装されていたといいます。

まさに町をあげての大歓迎を受けたのです。

そして二人は和雄の任地・木曾で新居を構えました。

その後、昭和11~15年ころまでは帝国林野局名護屋支局技手として名古屋市東区白壁町4丁目15に住んでいます。(『華族家庭録 昭和11年12月調』『華族名簿 昭和15年5月20日調』

さらに、昭和16~20年までは北海道に転勤して、北海道上川郡神楽町帝室林野局官舎に住みました。(『華族名簿 昭和18年7月1日現在』)

帝室林野局官舎(札幌支局)(『帝室林野局五十年史』帝室林野局 編集・発行、1939 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【帝室林野局官舎(札幌支局)『帝室林野局五十年史』帝室林野局 編集・発行、1939 国立国会図書館デジタルコレクション 】

和雄一家

こうして和雄は終戦まで木曾、北海道などの御料林の管理に従事し、文子とともに暮らしました。

この間に、昭和12年(1937)に長男宗鑑をはじめ、三男三女に恵まれています。

昭和12年12月開局50年記念式典当時の職員(『帝室林野局五十年史』帝室林野局 編集・発行、1939 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【帝室林野局昭和12年12月開局50年記念式典当時の職員『帝室林野局五十年史』帝室林野局 編集・発行、1939 国立国会図書館デジタルコレクション 】

立花家の戦後

昭和21年(1946)3月に鑑德が隠居すると、和雄は辞職し、一家ともども柳川に転居します。

そして相続するとすぐに、立花家へ財産税と相続税が襲い掛かかったのです。

財産税は、この年の11月に公布された財産税法により、財政再建・戦時利得吸収・インフル抑制を目的として設けられました。

個人の財産全体を課税対象とし、最高税率はなんと90%という高率累進税率で、1回限り賦課する臨時税として施行されたのです。

御花洋館(柳川市Webサイトより20211204ダウンロード)の画像。
【御花洋館(柳川市Webサイトより)】

立花家は華族として多くの家産を持っていたうえに、和雄の相続による相続税が上乗せされたのです。

こうして財産税と相続税を支払うために、和雄は東京の邸宅・家作や柳川の不動産などを手放さざるを得ませんでした。

そのなかでも「御花」は、周囲が残すことを強く勧めたといいます。

「御花」開業

こうして御花は残りました。

そして地元の消防団がここの大広間で集会を催した際に謝礼金3万円を払うと、和雄は税務署から料理屋類似行為として追徴金12万円を納めさせられたのです。

それならば、いっそ料亭の許可をとれと周囲から勧められ、和雄は料亭「御花」をはじめたところ、殿様が経営する料亭として多くのマスコミに取材されています。

その後、昭和30年代には料亭の経営を文子に任せて、和雄は教育委員などの公職に携わるようになりました。

こうしてはじめた料亭「御花」でしたが、和雄と文子に料亭経営の経験はありませんでしたので、経営はなかなか軌道にのらず、苦しい日々が続きます。

そんななか、昭和40年代には「御花」に温泉が出ると、ようやく業績は好転したのです。

御花、昭和50年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKU7422-C17C-14〔部分〕) の画像。
【御花、昭和50年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKU7422-C17C-14〔部分〕) 】
御花、平成20年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKU20081-C28-26〔部分〕)の画像。
【御花、平成20年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKU20081-C28-26〔部分〕)】
松濤園冬景(柳川市Webサイトより20211204ダウンロード)の画像。
【松濤園冬景(柳川市Webサイトより20211204ダウンロード)】

檀一雄

「御花」といえば、昭和43年に檀一雄がライフワークの『火宅の人』をここで執筆したことでも知られています。

また、立花和雄と檀一雄は、ともに柳川を愛するものとして長く親交がつづき、檀が柳川を訪れた際はかならず「御花」に和雄を訪ねたそうです。

檀一雄は山梨県で生まれましたが、父が柳川出身だったこともあり、出身地をたずねられると「柳川」と答えていました。(「じじばばの花」『檀一雄全集』第八巻)

昭和12年(1937)に処女作品集『花筐』(はながたみ)を刊行すると、10年の沈黙ののち、昭和25年(1950)に代表作『リツ子・その愛』『リツ子・その死』で文壇に復帰し作家としての地位を確立します。

太宰治や坂口安吾との親交があり、太宰や坂口らとともに無頼派を代表する作家としても知られています。(『日本近代文学大事典』)

「不思議なデビュー」など、柳川で過ごした青少年時代を記した作品に描かれるのどかな情景からは、私は柳川への強い愛着を感じずにはおれません。

檀一雄『アサヒグラフ』 1955年10月19日号(Wikipediaより20211216ダウンロード)の画像。
【檀一雄『アサヒグラフ』 1955年10月19日号(Wikipediaより)】
檀一雄文学碑(柳川市Webサイトより20211204ダウンロード)の画像。
【檀一雄文学碑(柳川市Webサイトより)】

いまでも柳川を代表する料亭・旅館として「御花」は多くの人に愛されています。(『華族総覧』)

「御花」は柳川の観光拠点であるだけでなく、町の象徴であり、誇りとなっているといいます。

そして「御花」は、立花家の子孫たちによって大切に守られているのです。

ここまで立花家の近現代をみてきました。

今では水郷柳川のもつ独特の風情を求めて、多くの観光客がこの街を訪れています。

しかし、この美しい光景も、一時期は存亡の危機を迎えていたのです。

そこで最終回となる次回は、水郷柳川復活の物語をみていきましょう。

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