5月24日・今日なんの日?

5月24日は、昭和46年(1971)に婦人運動家の平塚らいてうが亡くなった日です。

そこで、らいてうの波乱にとんだ歩みをたどってみましょう。

平塚らいてう(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【平塚らいてう(出典:近代日本人の肖像)】

女学生時代

らいてうは、明治19年(1886)2月10日に東京市麹町区三番町で、三姉妹の末っ子として生まれます。

父・平塚定二郎は旧和歌山藩士で会計検査院に勤める高級官僚、母・光沢(つや)は田安家典医の娘という裕福な家庭で育ちました。

その後、女子師範学校付属高等女学校を経て、明治39年(1906)日本女子大学家政科を卒業します。

明治40年(1907)6月、成美女学校に開設された閨秀文学会に山川菊栄らと参加、生田長江、与謝野晶子、馬場孤蝶、森田草平らの指導で短歌や小説を書きました。

明治41年(1908)3月には森田草平との心中未遂(塩原事件)を報じられて一大スキャンダルに発展しています。

『青鞜』への道

明治44年(1911)春、長江から「女だけで女むけの文芸同人誌」を出しませんか、と勧められると、らいてうは、当時平塚家で同居していた姉の友人・保持研子(白葉)の熱意に押されて、ついに発行を決意したのです。

生田長江(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【生田長江(出典:近代日本人の肖像)】

母から結婚資金の一部・100円の資金提供を受け、発起人はらいてうと白葉に加えて、日本女子大の同級生・中野初子と木内錠子、東京女子師範学校出身の物集和子が加わりました。

雑誌名は、18世紀イギリスにあった女性のサロン「ブルー・ストッキング」から長江が『青鞜』と名付けます。

また、このとき、らいてうのペンネームもはじめて使用しました。

白雪の山嶺に棲む「雷鳥」の孤高をおもってつけたのですが、当時実際に見たのではなく、幻想の鳥だったそうです。

そして、塩原事件で散々迷惑をかけた父への遠慮もあって本名を避けたのですが、あえて旧仮名遣いにしたのは、漢字で書くとしっくりこないからと記しています。

長谷川時雨(Wikipediaより20210317ダウンロード)の画像。
【長谷川時雨(Wikipediaより)】
田村俊子(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【田村俊子(出典:近代日本人の肖像)】

『青鞜』の時代

与謝野晶子、長谷川時雨、田村俊子、野上弥生子など当時の主な女性文学者を賛助会員や会員として結集し、らいてうは発刊の辞として「元始、女性は実に太陽であった」と高らかにうたいあげます。

じつはこの歴史的宣言文は、『青鞜』発刊の締め切り前夜に一気に書き上げたものでした。

青鞜、創刊号(1911年9月)の表紙(Wikipediaより20220516ダウンロード)の画像。
【青鞜、創刊号(1911年9月)の表紙(Wikipediaより)】

『青鞜』が発刊すると、らいてうが中心となって雑誌の編集や経営に努力する一方、「円窓より」と題した評論や劇評を発表していきます。

明治45年(1912)1月号の「ノラ論」特集や「五色の酒」事件、「吉原登楼」事件などによって、『青鞜』に集う女性たちは「新しい女」とよばれて激しいバッシングを浴びることになりました。

ところが、かえって女性を抑圧する存在を浮かび上がらせることに成功し、『青鞜』は女性文芸誌から女性解放誌へと発展していったのです。

らいてうは、発禁処分をうけると、これを逆手にとって世間の婦人問題に対する関心を高めることに成功します。

山川菊栄(左)と伊藤野枝(中央)(Wikipediaより20220518ダウンロード)の画像。
【山川菊栄(左)と伊藤野枝(中央)(Wikipediaより)】

「共同生活」と「母性保護論争」

大正3年(1914)1月、年下の画学生奥村博(博史)と法律による結婚を拒否して入籍しない「共同生活」に入り、11月には過労から千葉県御宿で博史と静養に入ります。

そんな中、大正4年(1915)1月号から『青鞜』の経営と編輯を伊藤野枝に譲りました。

いっぽう、長女曙生(あけみ)と長男敦史をあいついで出産しますが、翌年には博史が発病し、家事と育児に追われる毎日を過ごします。

そんな生活の中でも『中央公論』『婦人公論』に次々と評論を発表、大正7年(1918)には社会は母性を保護すべきだとして、与謝野晶子と「母性保護論争」を展開しました。

与謝野晶子(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【与謝野晶子(出典:近代日本人の肖像)】

平和運動のシンボルに

大正9年(1920)2月には、婦人参政権獲得に向けて治安警察法第五条の改正を請願すると、翌3月には市川房枝、奧むめおたちと新婦人協会を設立、10月には機関誌『女性同盟』を創刊し、2,000人以上の署名を集めます。

大正11年(1922)には婦人の政治集会への参加を禁止する条項の改正を勝ち取りましたが、この時すでにらいてうは健康を害して辞任し、東京府下砧村で田園生活を送りました。

その後、昭和5年(1930)1月、高群逸枝らの無産婦人芸術連盟の創設に参加、また相互扶助理念に基づく消費組合「我等の家」を住居地の東京市成城に設立しました。

戦時中は茨城県に疎開して沈黙を守りますが、戦後は再び平和運動や婦人運動に復帰、世界連邦建設同盟に参加するなど、らいてうは平和運動のシンボル的存在となります。

昭和28年(1953)日本婦人団体連連合初代会長に就任、国際民主婦人同盟副会長も務めたあと、昭和46年(1971)5月24日、胆道ガンのため85歳で没しました。

お嬢様が切り開いた新世界

当初、『青鞜』編集部が置かれたのは国語学者・物集高見博士宅で、発起人の一人・物集和子の自宅、この裏口に、慎ましく「青鞜社」の看板を出していたそうです。

『青鞜』の同人は若い女性ばかりですので、きっと編集部は女子大サークルさながらの雰囲気だったのでしょう。

レストラン・バーへ広告を取りに行って、五色の酒を注いだグラスにうっとりしたり、日本画家・尾竹竹波に頼んで吉原の遊郭を見学したりと、かなりミーハーなこともしていました。

ところが、様子をうかがっていたマスコミから誹謗中傷のバッシングをはじめると、彼女たちは敢然とこれに立ち向かっていきます。

こうして大逆事件で閉塞していた世相を、世間知らずのお嬢様たちが突き破って、新しい世界を切り開いていったのです。

らいてうの人生は、しがらみを断ち切り、新しい世界を切り開くつらい仕事ばかりを引きうけているようにみえてきました。

まさに、お嬢様パワー恐るべし。

平塚らいてう(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【平塚らいてう(出典:近代日本人の肖像)】

(この文章は、『平塚らいてう -近代と神秘-』新潮選書、井出文子(新潮社、1987)、『あの女性がいた東京の街』川口明子(芙蓉書房出帆、1997)および『日本女性人名辞典』『事典 近代日本の先駆者』『国史大辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(5月23日

明日(5月25日

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