6月17日・今日なんの日?

神田お玉が池に種痘所が設置された日

6月17日は、1858年(安政5年5月7日)に神田お玉が池、現在の東京都千代田区岩本町2丁目に種痘所を設置した日です。

そこで、種痘所設置までのあゆみと、その後の歴史をたどってみましょう。

種痘とは

人類は、古くから疱瘡(天然痘)の流行に苦しんできました。

そのいっぽうで、一度種痘にかかった人は二度と感染することがない事実も古くから知られていたのです。

そこで、人為的に疱瘡にかかることで免疫を獲得する方法が試みられてきましたが、副反応で死亡する例や、接種が感染源となって流行がはじまるなど、極めて危険なものでした。

1798年にイギリスのジェンナーが、牛痘法を発表します。

これは、人痘と牛痘の免疫上の関係を明らかにし、牛痘膿を摂取して人痘に対して免疫を獲得する画期的な方法でした。

すぐにイギリスで牛痘法の有効性が認められると、ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸、さらにはアジアへと、発見からわずか10年ほどで世界中に伝わったのです。

楢林宗建(『楢林宗建先生小伝:本邦牛痘苗輸入之始祖』楢林健三郎 編集・発行、明治32年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【楢林宗建(『楢林宗建先生小伝:本邦牛痘苗輸入之始祖』より)】

お玉が池種痘所設立

ところが、日本は鎖国中でしたので、ようやく嘉永2年(1849)に伝えられました。

佐賀藩の藩医・楢林宗建の進言により、長崎の蘭方医オット=モーニケがバタビアから牛痘を取り寄せて、これを使って宗建が種痘を成功させたのです。

こうして長崎で成功した種痘は、この年に冬に伊東玄朴によって江戸でも行われたほか、京都や大坂、福井でも行われたのです。

種痘の有効性を書物で学びとっていた蘭方医たちが、普及に努めるものの、民衆の反応は極めて冷ややかでした。

伊東玄朴(『伊東玄朴伝』伊東栄(玄文社、大正5年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【伊東玄朴(『伊東玄朴伝』より)】
「箕作阮甫」(『苫田郡誌』苫田郡教育会編(苫田郡教育会、昭和2年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【箕作阮甫(『苫田郡誌』より)】
川路聖謨(『幕末明治大正八十年回顧史 第2輯』東洋文化協会 編集・発行、1935 国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【川路聖謨(『幕末明治大正八十年回顧史 第2輯』より)】

そこで、大槻俊斎、伊東玄朴、箕作阮甫らは協議して安政4年(1857)8月に幕府に開設願を提出すると、翌安政5年1月にようやく許可が下りたのです。

さらに、江戸在住の83名の蘭方医と西洋薬種商神崎屋源蔵からの援助があって、1858年6月17日(安政5年5月7日)に神田お玉が池松枝町元誓願寺前、現在の東京都千代田区岩本町2丁目にあった川路聖謨の拝領地に種痘所が設置されたのです。

西洋医学の教育機関

ところが、この年の11月に神田の大火により種痘所も焼失してしまいます。

この危機を救ったのが、銚子の豪商・浜口梧陵でした。

浜口梧陵(『浜口梧陵小伝』杉村楚人冠 編集・発行、1934 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【浜口梧陵(『浜口梧陵小伝』より)】

浜口は「稲むらの火」の物語のモデルとなったことでも有名な義侠心あふれる人物で、種痘所再建のために300両もの大金を寄付したのです。

こうして翌安政6年(1859)9月に伊東玄朴邸の隣に種痘所は再建することができましたが、再建にあたって幕府が江戸市中に接種勧告を出すなどの援助を行ったので、種痘が一気に広まりました。

さらに、万延元年(1860)10月には種痘所を幕府直轄に変更し、大槻俊斎を頭取に任命、さらに蘭方医術を教えることになって、蘭方医学の教育機関となっていったのです。

文久元年(1861)10月には、種痘所から西洋医学所へと名称が変更されて、種痘・解剖・教育という三つの科が設置して、名実ともに西洋医学の教育機関となったのです。

しかし文久2年(1862)に頭取の大槻俊斎が死去すると、大坂から緒方洪庵を招聘します。

緒方洪庵(『中外医事新報(283)』日本医史学会 編集・発行、1892 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【緒方洪庵(『中外医事新報(283)』より)】

翌年には名称を医学所に変更して教育機関の確立を目指しますが、道半ばで洪庵が死去してしまいます。

このあとを引き継いで頭取に就任した松本良順は、ポンぺ=ファン=メールデルフォールトが長崎で行った系統的医学教育のシステムを導入して医科七科を教授しました。

ポンぺ(『西洋医術伝来史』古賀十二郎(日新書院、1942)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【ポンぺ=ファン=メールデルフォールト(『西洋医術伝来史』より)】
松本良順(『西洋医術伝来史』古賀十二郎(日新書院、1942)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【松本良順(『西洋医術伝来史』より)】

そして明治元年(1868)6月には医学所は明治新政府に引き渡されると、明治2年(1869)に大学東校、さらに明治7年(1874)には東京医学校と改称されて発展をとげます。

さらに、明治10年(1877)には東京開成学校と統合されて東京大学が誕生し、東京大学医学部として現代まで続くことになりました。

お玉が池

種痘所が作られたお玉が池は、どういうところだったのでしょうか。

もともと江戸時代以前、この地域にはお玉が池と呼ばれる池がありました。

当初は桜が池と呼ばれていましたが、ほとりにあった茶店のお玉と言う女性が池に身を投げた故事から、お玉が池と呼ばれるようになったと言われています。

言い伝えでは上野・不忍池よりも大きな池だったとも言いますが、池は江戸時代の早い時期に埋め立てられましたので、正確な場所や規模ははっきりしていません。

お玉池の浮世絵(千代田区設置案内板より)の画像。
【お玉池の浮世絵(千代田区設置案内板より)】

現在は「お玉が池」とは岩本町2丁目・神田岩本町・神田東松下町周辺であったと考えられますが、現在はそのあとかたは全く残らず、お玉稲荷が祀ってあるだけです。

そして江戸時代以降、この地域は文化人が多数住む場所として知られていました。

その一例をあげると、千葉周作の道場・玄武館や東条一堂の遙池塾をはじめ、梁川星厳の玉池吟社、佐久間象山の象山書院など、儒学者・漢学者・蘭学者が塾を開き、剣術家・柔術家などが道場を開く文化と教育の中心的役割を果たしていました。

江戸のど真ん中・お玉が池につくられた種痘所は、その後変遷を経て、現在の東京大学医学部へと発展しています。

そして現在も、お玉が池の種痘所設立にかかわった83人の江戸の蘭学者たちの熱い心が東京大学医学部へと受け継がれているのです。

お玉が池種痘所跡の碑の画像。
【お玉が池種痘所跡の碑】

(この文章は、『千代田区史 中巻』(千代田区役所 編集・発行、1960)、『新編千代田区史 通史編』(東京都千代田区 編集・発行、1998)、『角川日本地名大辞典 13 東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)および現地案内板を参考に執筆しました。)

きのう(6月16日

明日(6月18日

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