6月18日・今日なんの日?

第10代東京大学総長・古在由直が亡くなった日

6月18日は、昭和9年(1934)に農芸化学の先駆者・古在由直が亡くなった日です。

不屈の科学者ともよばれる古在の生涯を振り返ってみましょう。

古在由直略歴

古在由直(こざい よしなお)は、元治元年12月20日(1865年1月17日)に、京都所司代与力・柳下景由の長男として京都で生まれ、のちに母・良子の実家である古在家を継ぎました。

明治19年(1886)駒場農学校の後進である東京農林学校を卒業すると、明治22年(1889)に同校教授、翌年には東京帝国大学の助教授となって、ドイツ人教師のケルネルをサポートしつつ、研究と教育にあたりました。

オスカル・ケルネル(Wikipediaより20220610ダウンロード)の画像。
【オスカル・ケルネル(Wikipediaより)】

明治28年(1895)からドイツのライプニッツ大学に留学、明治33年(1900)に帰国すると、東京帝国大学農科大学教授に就任、発酵化学を担当しました。

明治36年(1903)第二代農事試験場長に就任すると、古在は、全国の試験場に指示して肥料の合理的施用法を指導しています。

また、明治37年(1904)に畿内支場ではじまった人工交配育種法は、場長を務めた古在の示唆によるものです。

いっぽう、明治20年代から問題が表面化した足尾銅山鉱毒事件では、終始科学者として中立の立場を堅持し、渡良瀬川沿岸の農作物被害が鉱毒によることを明らかにしました。

大正9年(1920)から東京帝国大学総長を二期8年務め、昭和9年(1934)6月18日に小石川駕籠町、現在の東京都文京区の自宅で死去、71歳でした。

古在由直(安藤円秀編纂 『古在由直博士』 古在博士伝記編纂会、1938 Wikipediaより20220610ダウンロード)の画像。
【古在由直(安藤円秀編纂 『古在由直博士』 古在博士伝記編纂会、1938 Wikipediaより)】

古在由直の業績

古在の業績は、農芸化学の先駆者であるとともに、大学教育とくに農学教育創成期の指導者であるとともに、社会正義に対する科学的精神を実践した点にあるでしょう。

また、総長を務めた8年間は、関東大震災に見舞われて、大きな打撃を受けた東京帝国大学の再建と基礎確立に献身した業績も見逃せません。

現在も残る「内田ゴシック」の東京大学を総長として作り上げたのです。

さらに、研究面でも、稲作の肥料試験や清酒酵母、あるいは茶の化学的研究など、広域にわたる業績をあげています。

また、農事試験場長として、現在の農業技術研究所の組織を作ったことも業績の一つといえるでしょう。

古在由直ってどんな人?

第10代東京帝国大学総長となった古在には、さまざまな逸話が残されています。

ここで、古在の、剛毅にしてちょっとおちゃめなエピソードの数々をみてみましょう。

駒場農場の学生時代には、「賄征伐」と称する食堂の賄人と学生の乱闘における巨頭と目されて、「古在の平均得点より15点削る」という罰点処分が適用されたそうです。

しかし成績優秀であったため、処分後も優等生として卒業しているといいます。

いったい食堂で何があったのでしょうか、気になるところですね。

のちに帝大教授となってからは、講義の要点をまとめた石版刷プリントを作って生徒たちに配り、生徒たちが講義を理解しやすいようにサポートしていたといいます。

また、講義ではいつも熱中してチョークでテーブルを叩くため、まわりがチョークの粉まみれで真っ白になっていたのだとか。

そのうえ、白くなった手で頭をかきながら講義を続けるので、講義終了時にはいつも真っ白な頭で教室を後にしていたそうです。

古在は、肖像、エピソードともども剛毅ないっぽう温かい人柄がしのばれます。

妻・清水紫琴と子どもたち

この古在由直が明治25年(1892)に結婚した相手が、清水豊子(紫琴)です。

自由民権運動の活動家で小説家の紫琴が、古在の人柄にすっかり惚れこんだのが結婚につながったといいます。

清水紫琴(『明治初期の三女性:中島湘煙、若松睦子、清水紫琴』相馬黒光(厚生閣、1940)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【清水紫琴(『明治初期の三女性:中島湘煙、若松睦子、清水紫琴』より)】

紫琴は離婚や未婚の母となり、男性で苦労した時期があるだけに、古在の豪放磊落で真っすぐなところにひかれたのかもしれません。

二人は四男一女をもうけるものの、二人は夭折、長男の由正は東洋史学者、二男・由重はマルクス主義哲学者、由正の長男・由秀は天文学者と、高名な学者を輩出しています。

足尾鉱毒事件

このように、さまざまな魅力をもつ古在ですが、もっとも印象に残るのは足尾鉱毒事件ではないでしょうか。

明治維新後に殖産興業の掛け声のもと、足尾銅山の採掘量が増加するにつれて、明治10年代から農業や林業に深刻な被害が発生し、被害地の農村は壊滅的状況となっていました。

こうしたなか、明治20年代に入ると農事試験場第二代場長・古在、初代場長・沢野淳、横井時敬と、当時を代表する農学者たちが農業被害の実態調査と原因究明を命じられます。

田中正造(『田中正造之生涯』田中正造(国民図書、1928)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【足尾鉱毒問題の象徴的存在・田中正造(『田中正造之生涯』より)古在は原因を科学的に解明したことで問題解決に向けて大きく貢献しました。】

古在は、現地入りして凄惨な被害状況に直面すると、「感慨胸に迫り被害民に対し同情の涙禁じ能わざりき」状態となり、原因の科学的解明を決意します。

とはいえ、分析機器などなかった時代ですので、原因究明は困難を極めました。

それでも、古在は執念で研究を続けて、ようやく銅による汚染を実証し、科学の力で世論を喚起したのです。

古在はまさに不屈の科学者精神を象徴であり、科学者の鑑といえる人物といえるでしょう。

古在由直(『東京帝国大学五十年史 上冊』東京帝国大学 編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【古在由直(『東京帝国大学五十年史 上冊』より)】

(この文章は、『国立研究開発法人農業環境技術研究所環境報告2015』(国立研究開発法人農業環境技術研究所 編集・発行、2016)、『東京大学広報誌 淡青』22号(東京大学広報委員会・東京大学本部広報グループ 編集・発行、2009)、『明治初期の三女性:中島湘煙、若松睦子、清水紫琴』相馬黒光(厚生閣、1940)および『国史大辞典』『明治時代史大辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(6月17日

明日(6月19日

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です