真珠王・御木本幸吉に学ぶ、成功の秘訣

7月11日は、明治26年(1893)に御木本幸吉が半円真珠の養殖に成功した日です。

そこで、御木本幸吉の足跡をたどってみましょう。

御木本幸吉(戦後)(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【御木本幸吉(戦後)(出典:近代日本人の肖像)】

御木本幸吉の生い立ち

御木本幸吉(みきもと こうきち)は安政5年1月25日(1858年3月10日)の鳥羽大里町、現在の三重県鳥羽市で、屋号阿波幸といううどん製造販売業を営む父・音吉と母・もとの長男として生まれました。

幼名は吉松です。

鳥羽港は、江戸と大阪を結ぶ海上輸送の要衝で、祖父は運送・販売業で財を成しましたが、父の音吉は社会の変化に対応できず財産の多くを失っていたのです。

しかし、機械器具の発明や改良の才能があり、粉挽機の発明で三重県から表彰されていることをみると、幸吉へとその才能が引き継がれているのでしょう。

若き日の御木本幸吉(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【若き日の御木本幸吉(出典:近代日本人の肖像)】

幸吉は13歳のときから家業のうどん屋を手伝いながら青物の行商を行っていたといいます。

明治11年(1878)に幸吉は家督を継ぐと、3~5月に東京や横浜などを見てまわり、欧米との貿易に強く関心を持つことになります。

翌年には大阪や神戸を見てまわり、海産物輸出の将来性に手ごたえを感じました。

そこで、明治13年(1880)にはアワビ・ナマコ・テングサなどをあつかう海産物商としてスタートを切ったのです。

それと同時に、明治12年(1879)に鳥羽町会議員、明治14年には志摩国物産品評会委員、明治17年には三重県勧業諮問委員などとなり、社会的地位を獲得して実業家として活躍する足場を築きました。

幸吉と真珠の出会い

幸吉は干アワビの輸出を手掛ける中で、明治20年代初めから真珠の販売に関心を持つようになり、真珠の生産に注目しはじめます。

このころ、鳥羽周辺でも志島の小川小太郎が明治20年(1887)ころから真珠貝養殖を開始しており、鳥羽周辺で真珠貝養殖への取り組みがはじまっていました。

明治末の御木本幸吉(『財界一百人』遠間平一郎(妖星)(中央公論社、明治45年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【明治末ころの御木本幸吉(『財界一百人』より)】

明治21年(1888)6月、東京で大日本水産会主催の第二会全国水産物品評会が開催され、志摩国海産物改良組合長の幸吉は、改良海参(いりこ)と真珠を出品して二等賞を獲得しました。

この結果に自信をつけた幸吉は、真珠貝養殖に本腰を入れて取り組む決意します。

8月に大日本水産会幹事長柳楢悦を招いて英虞湾神明浦などの視察を行い、9月からその場所で真珠貝養殖を開始しました。

しかし、明治20年代(1887~96)初期には、すでに真珠貝要職から貝に人工物を入れて人工真珠を養殖する時代へと進んでおり、幸吉も鳥羽湾相島、現在の御木本真珠島で人工真珠養殖に着手したのです。

「真珠王」への道のり

明治26年(1893)には東京帝国大学の動物学者・箕作佳吉と佐々木忠次郎からの指導を受けて7月11日に半円真珠の養殖に成功しました。

箕作佳吉(Wikipediaより20220709ダウンロード)の画像。
【箕作佳吉(Wikipediaより)ミツクリサメにその名を遺す偉大な動物学者です。】
明治26年の佐々木忠次郎(『動物学雑誌 佐々木忠次郎博士記念号』1939、東京動物学会 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【明治26年の佐々木忠次郎(『動物学雑誌 佐々木忠次郎博士記念号』より)】

そこで、養殖真珠生産の企業化を目指して神明浦田徳島と周辺の漁場6万坪を借りて本格的な事業を開始します。

さらに明治27年(1894)9月に真珠素質被着法の特許を出願、明治29年(1896)1月27日に許可されて、その後しばらくの間は半円真珠の養殖事業は御木本が独占することになりました。

明治32年(1899)3月には東京に御木本真珠店を出店するとともに、真珠加工場も設置して、みずから真珠販売に乗り出したのです。

昭和5年頃の東京・御木本真珠店と御木本幸吉(『赤手空拳市井奮闘伝』実業之日本社 編集・発行、1930 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【昭和5年頃の東京・御木本真珠店と御木本幸吉(『赤手空拳市井奮闘伝』より)】
真珠の陳列(御木本幸吉)(『関西府県聯合共進会出品陳列品意匠写真帖 第10回』名古屋商工会議所 編集・発行、明治43年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【真珠の陳列(御木本幸吉出品)(『関西府県聯合共進会出品陳列品意匠写真帖 第10回』より)御木本は趣向を凝らした展示方法で多くの博覧会に出品しました。】

明治30年代からは、フィラデルフィア万国博覧会(1926)、シカゴ万国博覧会(1933)、ニューヨーク万国博覧会(1939)など、毎年海外の博覧会に出品して、ミキモト=パールの名を世界に広めました。

その後、御木本の真珠養殖独占に関して反対派との抗争などの問題が発生するものの、すでに国家的実業家としての地位を確立していた幸吉は、知事らの支援を得て乗り越えていったのです。

その後、真円真珠養殖技術で先行していた娘婿の西川藤吉や見瀬辰平、桑原乙吉らを幸吉の研究所に迎え、ついに明治40年(1907)に真円真珠養殖法を発明します。

西川藤吉(『真珠』西川藤吉(西川新十郎、大正3年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【西川藤吉(『真珠』より)】

この技術を御木本で特許化することで、明治41年(1908)真円真珠養殖の特許を獲得しました。

その後は、真珠直販店をロンドン・ニューヨーク・パリなど欧米の主要都市に開設し、ついにミキモト=パールの名は世界に知れ渡って、御木本幸吉は「真珠王」の名を不動のものとしたのです。

その後、幸吉は昭和29年(1954)9月21日に養殖場のある多徳島の自宅で死去、享年96歳でした。

昭和5年頃の御木本幸吉(『子供のための発明発見家物語』栗原登(文化書房、1931)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【昭和5年頃の御木本幸吉(『子供のための発明発見家物語』より)】

成功の秘訣

一介の海産物商だった御木本幸吉がこれほどの成功を収めた秘訣は、どこにあったのでしょうか。

優良な養殖場を独占的に使用したこと、高級装身具加工に力を入れて養殖真珠に宝石的価値を持たせたこと、世界の有名博覧会への出品による知名度アップ、皇室への献上により宮内省御用達に指名されるなどがあげられます。

こうしてみると、技術面というよりは、政商ともいえるような商業活動によるものといえ、幸吉のもつ独自の商才によるとみてよいでしょう。

御木本幸吉(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【踊る御木本幸吉(出典:近代日本人の肖像)】

また、ヨーロッパの伝統的市場で天然真珠の需給が不安定だったところに、養殖真珠は衝撃を持って迎えられました。

このため、英仏貿易商による輸入阻止などの妨害を受けましたが、大衆消費社会へと移行する欧米市場でミキモト=パールは、低価格で高品質として次第に高い評価を得ていったのです。

とはいえ、真珠養殖は自然が相手ですので、困難の連続でした。

何度も赤潮の被害に遭って破産直前まで追い込まれても、幸吉はそのたびに不屈の意志で立ち上がっていったのです。

「真珠王」は、商才はもちろんですが、強靭な意思がもたらしたものといえるでしょう。

晩年の御木本幸吉(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【晩年の御木本幸吉(出典:近代日本人の肖像)】

(この文章は、『国史大辞典』『明治時代史大辞典』『事典 近代日本人の先駆者』の関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(7月10日

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明日(7月12日)

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