「タカラヅカ」が生まれた日・7月15日

「タカラヅカ」が生まれた日

7月15日は、宝塚歌劇団の前身である宝塚唱歌隊が大正2年(1913)に結成された日です。

そこで、「タカラヅカ」の華麗な歴史を振り返り、その歴史的役割をみてみましょう。

少女歌劇団の勃興

日本には、若い女性のみで演じられる歌や舞踊、演技が混然一体となった独特の音楽劇が行われてきました。

主に、和洋折衷のレビューやミュージカル、お伽歌劇、オペレッタなどを上演してきましたが、出演者が全員女性のため、女性が男性も演じています。

この少女歌劇のはじめは、明治45年(1912)1月に東京日本橋の白木屋呉服店が客寄せのために設立した白木屋少女歌劇団で、少女歌劇の発案者・本居長世作のお伽歌劇「羽子板」の上演とされています。

その後、大正から昭和にかけて少女歌劇は全国各地に数多く現れるものの、戦争や災害、経営難などでほとんどが消滅したのです。

宝塚唱歌隊結成

阪急電車の創始者・小林一三は、宝塚新温泉への乗客誘致のため、歌の好きな良家の子女16名を集めて、大正2年(1913)7月15日「宝塚唱歌隊」を結成しました。

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【阪神急行電鐵株式会社取締役会長 小林一三(『大・阪急』百貨店新聞社-編纂・発行、1936 国立国会図書館デジタルコレクション)より)】

小林がヒントにしたのは、当時大阪で人気を博した「三越少年音楽隊」だったといいます。

東京音楽学校出身の安藤弘夫妻と高木和夫が少女たちの指導にあたりましたが、上達が予想外に早かったため、「宝塚少女歌劇養成会」に改称して、歌劇の要請をはじめたのです。

安藤は、宝塚で上演する歌劇は、誰でもわかり易くて気取らないものがふさわしいと考え、音楽は演じる少女たちが無理せず歌えるような学童唱歌がよいと考えました。

大正3年(1914)4月、新人4名を加えて、宝塚新温泉婚礼博覧会の余興として、パラダイス館で宝塚少女歌劇第1回公演が開幕したのです。

このときの上演演目は、お伽歌劇のさきがけとなった北村季晴作の「ドンブラコ」、本居長世作の喜歌劇「浮れ達磨」、ダンス「胡蝶の舞」の3部作でした。

宝塚歌劇団

大正7年(1918)には宝塚歌劇養成会は帝国劇場公演を行って東京へ進出、翌年には宝塚音楽学校として文部省に認可されています。

さらに大正10年(1921)には収容人員がこれまでの3倍となる公会堂劇場での公演をきっかけに、二部制の公演を開始し、これにともなって花組と月組が誕生しました。

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【大正13年竣工の大劇場と宝塚新温泉(『宝塚少女歌劇廿年史』宝塚歌劇団 編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション)より)】

その後、大正13年(1924)には日本ではじめてとなる4,000人劇場の宝塚大劇場が完成するとともに雪組が誕生、昭和8年(1933)には星組も誕生し、大きな発展をとげたのです。

さらに、翌昭和9年(1934)には千代田区有楽町に東京宝塚劇場を開場しています。

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【レヴユウ「モン・パリ」フィナーレ(『宝塚少女歌劇廿年史』宝塚歌劇団 編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション)より)】

いっぽう、昭和2年(1927)には岸田辰彌は日本初となるレビュー作品として、欧米帰朝作品「モン・パリ」を上演すると、主題歌「モン・パリ」が日本中で大ヒットとなったほか、ラインダンス、大階段、羽根扇もはじめて使用されました。

昭和5年(1930)には、白井鐵造が欧米帰朝作品として「パリゼット」を上演すると、主題歌「すみれの花咲くころ」や「おお宝塚」などのシャンソンが公演で多数用いられてヒットし、これ以降は宝塚が西洋音楽の窓口の役割を果たすようになりました。

こうして宝塚少女歌劇は、宝塚調のレビューやショー、オペレッタなどを確立して全盛期を迎えることになります。

昭和15年(1940)には、戦時色が強まるなかで、名称を「宝塚歌劇団」と改めていました。

戦後の躍進

戦時中は一時中断したものの、戦後復興とともに越路吹雪や新珠三千代、乙羽信子、八千草薫、寿美花代などのスターを次々と輩出して復活します。

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【越路吹雪(Wikipediaより20220715ダウンロード)】
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【乙羽信子(Wikipediaより20220715ダウンロード)】
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【八千草薫(Wikipediaより20220715ダウンロード)】

その後、テレビの登場やレジャーの多様化で低迷期を迎えるものの、昭和49年(1974)植田紳彌脚色の「ベルサイユのばら」が空前のヒットとなって低迷期を脱出すると、榛名由梨、鳳蘭、安奈淳、汀夏子とスターが生まれました。

1980年代に入ると、「スターシステム」が確立し、安定した人気を誇るとともに、遥くらら、松あきら、大地真央、黒木瞳などのスターを次々と生み出していきます。

平成10年(1998)に東京での通年公演は実現して宙組が新設、平成13年(2001)には新・東京宝塚劇場が開場し、さらなる発展を遂げています。

「タカラヅカ」とは

女性だけの宝塚歌劇に対し、当初は不自然、変態、非芸術、「味噌とバターの不調和」などと非難が浴びせられました。

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【宝塚音楽学校初期の生徒たち(大正5年1月8日撮影)(『宝塚少女歌劇廿年史』宝塚歌劇団 編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション)より)】

しかし、宝塚歌劇は、まだまだ制約の多かった大正時代にあって、一つのユートピア、理想像を現出したことで熱狂的支持を集めました。

また、近代日本にほとんどなかった女性による自治の場となり、多くの女優を生み出したほか、自立した女性を世に送り出していったのです。

また、シャンソンをはじめさまざまな新しい音楽を日本に紹介するとともに、レビューを通じて欧米文化を紹介する役割を果たしてきました。

さらに、マンガやアニメーション、ゲームなど、さまざまなジャンルの作品を積極的に取り込んで紹介した事にも注目してよいでしょう。

欧米文化の強い影響から出発した宝塚歌劇は、100年を超える歴史の中で独自の発展をとげ、もはや日本文化の一面を代表する存在となったのです。

「タカラヅカ」は、今や日本が世界の誇る舞台芸術といえるのではないでしょうか。

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【宝塚大劇場(『承業二十五年記念帖』(竹中工務店 編集・発行、大正13年 国立国会図書館デジタルコレクション)より)】

(この文章は、『宝塚少女歌劇廿年史』(宝塚歌劇団 編集・発行、1932)および『日本文化史事典』『大衆文化事典』『国史大辞典』を参考に執筆しました。) 

きのう(7月15日

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