「八甲田山」の真実・水野男爵家編【紀伊国新宮水野家(和歌山県)47】

前回まで八甲田山雪中行軍遭難事件の原因についてみてきました。

そこで今回は、後継ぎを失った水野男爵家の様子をみてみましょう。

事故直後の水野男爵家

読売新聞明治35年(1908)1月31日付朝刊軍事欄に「嗚呼水野中尉」と題された記事によると、水野家へ事故の第一報が届いたのは1月29日で、水野中尉が危篤という電報が送られてきたことによります。

すると、その日のうちには、大久保久保町の水野男爵邸で留守を預かっていた二男直に家扶水野勝昌と旧臣宮井某を付き添わせて青森に向かわせました。

水野直(『現代人物評論』馬場恒吾(中央公論社、1930)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【水野直『現代人物評論』馬場恒吾(中央公論社、1930)国立国会図書館デジタルコレクション のちに「貴族院の策士」として名をはせた二男の直も、この当時はまだ東京帝国大学の二年生でした。】

この二男直は養嗣子として結城水野家へ入り、この時は東京帝国大学法科大学に通っていたのです。

一行は翌1月30日に青森に到着、この日は事件の報道合戦が始まった日で、27日に発表された演習軍全員死亡の情報が流布していました。

しかし本格的な捜索はこの日はじまったばかりで、実際はまだ水野中尉の安否は不明だったのです。

遺体発見

その後、水野中尉の遺体は1月31日に捜索隊に発見され、2月1日夜に屯営に搬送されました。

遺族はすぐに遺体を確認されていますが、その時の様子を記した2月5日の報知新聞に「惨死将校水野中尉令弟の談話」をみてみましょう。

「中尉は襯衣ズボン下各二枚に靴下三枚を着け軍服を着し実家より送られたる防寒衣を身に纏い足に藁靴を穿ちたる儘棒の如く真直に氷結し居られ」と記されています。

前にみたように、水野中尉は、飲まず食わず不眠不休の行軍での疲弊があったところに、藁靴が濡れたあと凍結したことで、そこからさらに体力を奪われて低体温症を引き起こしたのでしょう。

さらに、そのまま放置されたことで凍死したとみられます。

水野忠宜子爵(『学習院・開校五十年記念』学習院 編、1928、国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【水野忠宜子爵『学習院・開校五十年記念』学習院 編、1928、国立国会図書館デジタルコレクション】

事故直前の水野中尉

また、朝日新聞東京版明治35年(1902)2月2日に実弟の直下ら取材したとみられる事故直前の様子が掲載されています。

「(水野中尉は)性質磊落にして平民主義を執り毫も門閥を跨らず部下に対して隔てなければ上下の信用頗ぶる厚く少壮士官として有望の人」と人となりを紹介しています。

さらに注目されるのは、「軍事上の必要ありとて熱心に写真術を研究し、現に雪中行軍出立の当日即ち去23日東京なる実弟直氏の家扶小石川区春日町30番地吉田貢氏の許へ左の請書を送りて背のうに附すべき軍用写真器の注文を申越している」事実です。

こうなると、第43回「「八甲田山」の真実・水野中尉の死」でみた伊藤中尉の回想で「水野少尉は平生、休日を利用して登山などして身体を鍛錬していた」という証言が気になってきます。

記事と証言と合わせて考えると、趣味と実益を兼ねて休日に登山をしていた水之尾中尉は、戦場にカメラを持ち込む必要性を感じて携行しやすいカメラ機材を開発しようとしていたのではないでしょうか。

そして戦場にカメラを持ち込むのは、もちろん報道のためではなく、戦闘状況の記録を行う目的ではなかったのかと推察するところです。

つまり水野中尉は、演習が終わると、移動しつつ野外撮影を行う実験を計画していたとみられるのです。

香川敬三皇后宮大夫(Wikipediaより20220223ダウンロード)の画像。
【葬儀に参列した香川敬三皇后宮大夫(Wikipediaより)】
中村雄二郎陸軍中将、参列時は陸軍総務長官(Wikipediaより20220223ダウンロード)の画像。
【中村雄二郎陸軍中将、参列時は陸軍総務長官(Wikipediaより)】

水野中尉の葬儀

遺体確認の情報は、すぐさま水野男爵家に伝えられ、鎌倉で病気療養中だった父の忠幹の知るところとなりました。

読売新聞明治25年(1908)2月17日朝刊軍事欄によると、前日に水野忠宜中尉の葬儀が東京・小石川の伝通院でおこなわれました。

会葬者は香川皇后宮大夫をはじめ、陸軍では中村陸軍総務長官、大井秘書官、井川大佐、華族では実弟の水野直と片桐貞央、香川櫻男、師岡次男、松平恒雄など、数百名が参列するものでした。

松平恒雄(昭和天皇に供奉する松平宮相(右) 戦艦武蔵艦上にて、1943年(昭和18年)6月24日。Wikipediaより20220223ダウンロード)の画像。
【松平恒雄(のちの宮内大臣・参議院議長、昭和天皇に供奉する松平宮相(右) 戦艦武蔵艦上にて、1943年(昭和18年)6月24日。Wikipediaより)】

この葬儀も、身内で行ったあとに小石川伝通院で追悼式を行ったとする記事もみられます。

また、『新宮市誌』によると、明治35年(1908)2月23日に水野中尉の遺骨は新宮に送られて遺骨埋葬式が行われました。

青森歩兵五聯隊の陸軍墓地には事故の犠牲者全員が埋葬されていますので、小石川伝通院での葬儀の後、遺骨は青森と東京、新宮と分骨されたのでしょう。

水野忠宜中尉の葬儀が行われた小石川伝通院山門の画像。
【水野忠宜中尉の葬儀が行われた小石川伝通院山門】

忠幹の死

第37回「忠幹の子どもたち」でみたように、忠幹は次第に病気がちとなり、明治34年(1901)からは新宮水野家の菩提寺である神奈川県鎌倉郡鎌倉町字西御門38番地所在の高松寺で療養していました。

そのさなかに忠宜が八甲田山雪中行軍遭難事件で無残にも凍死したことで忠幹は非常にショックを受けたようです。

未来を嘱望していた長男のあまりにも早すぎる死に、忠幹はすっかり気落ちし、同年4月30日に亡くなってしまいました。

今回は、後継ぎを失った水野男爵家の様子をみてきました。

そこで次回は、世界山岳史上最悪の犠牲者を出した事件の反響をみてみましょう。

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