「八甲田山」の真実・行軍初日編【紀伊国新宮水野家(和歌山県)41】

前回みたように、青森歩兵第五聯隊は、杜撰な計画と準備不足の状態で演習へ出発しました。

そこで今回は、行軍初日の様子をみてみましょう。

遭難地略図(『第五聯隊遭難始末』北辰日報編輯部 編(近松書店、1902)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【遭難地略図『第五聯隊遭難始末』北辰日報編輯部 編(近松書店、1902)国立国会図書館デジタルコレクション 】

行軍開始

明治35年(1902)1月23日午前7時ころ、屯営を出発。

行軍出発当初の天気は薄曇り、西の風最大風速1.3m、気温-6.7度、前日の積雪は1.5cm、当日積雪90cm(二尺九寸七分)、この地方では良いお天気だったといいます。

東の空が白みかけた5時50分頃に演習部隊は五中隊舎前に集合。

6時に起床ラッパが鳴り、その吹奏が終わると各小隊長は順次、神成中隊長に敬礼して小隊の編成完結を報告します。

中隊の編成完結を確認した神成中隊長が命課、続けて行進命令を下達しました。

その後、山口大隊長と津川聯隊長の長い訓示が続き、最後に医官から衛生上の注意がおこなわれたとみられます。

青森歩兵第五聯隊 兵営ヨリ八甲田山ヲ望ム((陸地測量部、1902)青森県立図書館デジタルアーカイブ)の画像。
【青森歩兵第五聯隊 兵営ヨリ八甲田山ヲ望ム(陸地測量部、1902)青森県立図書館デジタルアーカイブ  兵営からは八甲田山がよく見えたそうです。】

出発

6時55分営門通貨、行進順序は一小隊、神成大尉、二小隊、三小隊、そして水野中尉率いる四小隊、特別小隊、山口少佐以下の編成外、行李の順です。

幸畑までの3.2㎞は人馬の往来もあって多少とも圧雪されているうえに高低差も少ない平坦な道で順調でした。

7時40分頃、演習部隊は幸畑村に到着し、数十分の休憩をとりました。

ここ幸畑から田代までは18㎞、高低差150mですが、ここまでとは違ってほとんどが登りとなるのです。

青森衛戍歩兵第五聯隊営門の光景((陸地測量部、1902)青森県立図書館デジタルアーカイブ)の画像。
【青森衛戍歩兵第五聯隊営門の光景(陸地測量部、1902)青森県立図書館デジタルアーカイブ  事件直後の捜索時のもののようです。営門ですでにこの積雪でした。】
青森歩兵第五聯隊 本部前を出発する馬橇((陸地測量部、1902)青森県立図書館デジタルアーカイブ)の画像。
【青森歩兵第五聯隊 本部前を出発する馬橇(陸地測量部、1902)青森県立図書館デジタルアーカイブ  捜索隊の物資を輸送する馬橇。演習軍は人力でした。】

さらにここからは雪も深くなるため、先頭小隊はカンジキを履き、ラッセルしながら大行李の道を開きつつ行進するよう命令が下りました。

休憩後に出発して500mほど行くと、右手に陸軍墓地があり、この横を通っていよいよ山中へ入ったのです。

小峠

小峠到着11時30分頃、橇の先頭到着12時ころ、最後部到着が12時30分頃。

すでにこの時点で、大行李に深刻な遅れが生じていました。

そのため、これを待つ徒歩部隊にも遅れが生じたうえ、行李輸送のために支援要員を出す事態となっています。

ここで昼食をとりますが、弁当のご飯も間食の餅も、凍っていてほとんど食べることができませんでした。

そして小峠で待つ間に天候の悪化が見られ、風雪が強くなったといいます。

この事態に、行李輸送の遅れと合わせて一部将校から帰隊の意見が出るものの、山口少佐が予定通り田代新湯に前進を命じます。

田代放牧地の大観(『十和田・八甲田』青森林友会 編集・発行、1927 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【田代放牧地の大観『十和田・八甲田』青森林友会 編集・発行、1927 国立国会図書館デジタルコレクション 夏には広大な放牧地となる田代も、厳冬期は全く違う表情となります。】

馬立場

小峠を出発した演習軍は、大峠~火打山~大滝平~賽ノ河原~按ノ木森~中森~馬立場と、約6.4㎞進みました。

ところが、主力の馬立場到着が16時30分頃、小峠から3時間30分ほどだったのに対して、大行李の到着は大幅に遅れて、黄昏時となったと記録されています。

ここ馬立場までくれば、田代新湯まで東へ3km、その手前の鳴沢までは約0.5㎞。

大行李は、鳴沢の急斜面を橇が上ることができず、15台のうち10台を放棄し、行李を人背によって運搬せざるをえなかったのです。

馬橇ニテ貨物運搬の光景((陸地測量部、1902)青森県立図書館デジタルアーカイブ )の画像。
【馬橇ニテ貨物運搬の光景(陸地測量部、1902)青森県立図書館デジタルアーカイブ  馬橇を投入した捜索隊も、物資の輸送には苦心しています。】

ここまで、行軍初日の様子をみてみました。

前々回みたように、杜撰な計画と準備不足の状態で演習へ出発したことから、はやくも深刻な事態に陥ってしまいます。

しかし、指揮官は演習継続を決断しました。

そこで次回は、八甲田の吹雪の中で、演習軍の彷徨がはじまるところをみてみましょう。

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