おふみ 日本橋から蔵前榊神社まで

鳥蔵柳浅の古典落語を歩く、今回は前回に続いて「おふみ」、その舞台を歩いてみたいと思います。

主な舞台となった酒屋があった日本橋辺。

ここは言わずと知れた一大商業地です。

歌川広重「東海道五十三次之内 日本橋」(天保4年)の画像。
【歌川広重「東海道五十三次之内 日本橋」天保4年
日本橋と言えば、広重のこの作品を連想します。】
日本橋の画像。
【日本橋の麒麟、東野圭吾氏の小説で一躍有名になりました。さすがの貫禄です。】

ただ、酒は液体で重いので、これを扱う大きなお店は水運の便が良いところに限られてきます。

ですので、江戸時代には日本橋にお酒を扱う大店は多くなかったようです。

これが明治になると鉄道輸送が主になってきますので、このあたりの設定にも明治と言う時代を感じることができます。

歌川芳虎「東京日本橋馬車通行図」(明治2年)の画像。
【歌川芳虎「東京日本橋馬車通行図」明治2年 乗合馬車の後ろに日本橋が見えます。文明開化を喧伝していますが、こちらはまだ、江戸時代と大きくは変わっていないようです。】
日本橋の三越本店の画像。
【日本橋と言えば、三越本店。明治時代も日本橋周辺は日本の商業の中心地。
旦那の酒屋も案外、相当の大店なのかもしれません。】

定吉が赤ん坊と置いてけぼりにされた路地も、お店からあまり遠いと赤ん坊に何かあると困りますので、そう遠くない場所かと推察できます。

日本橋室町あたりから裏路地がありますので、このあたりかと思うところです。

日本橋室町の路地。
【日本橋室町のちょっとした路地。
定吉が赤ん坊と置いてけぼりを食った路地は、この辺りなのかもしれません。】

今度は旦那とお文の愛の巣周辺を見てみましょう。

お文が囲われていた柳橋同朋町は、現在の中央区東日本橋二丁目27番地にあたります。

神田川に沿った場所で、柳橋の袂、神田川の土手には柳並木、船宿が並ぶという風情ある場所でした。

すぐ近くの両国広小路は見世物興行などで大賑わいですが、通り一本入ったここいらは大分静かだったようです。

ここに妾宅を置いた旦那の趣味が分かりますし、経済的にもかなり余裕があったものと推察できます。

かつての柳橋同朋町界隈の画像。
【かつての柳橋同朋町界隈。マンションとオフィスビルが並ぶ一角は、現在でもとても静かです。】
旧跡両国広小路の碑の画像。
【柳橋同朋用のすぐ隣は、年中興行でにぎわう両国広小路。かつての両国広小路を示す碑が建てられているのですが、背景にある建物はもう柳橋同朋町です。
かつての両国広小路よりも現在の京葉道路の方が、少し道幅が広いようです。】
【柳橋から神田川上流の浅草橋を望む。
屋形船が並ぶ神田川を挟んで、左側が柳橋同朋町、右側が柳橋。】

柳橋同朋町から柳橋を北に渡れば、そこは柳橋花柳界でした。

すぐに右に折れて、当時の柳光亭通りを左に折れて進むと、奥州街道(現在の江戸通り)にあたる前に第六天社の跡に着きます。

現在は東隣にあった篠塚稲荷がもとの位置にありますので、その一区画が第六天社でした。

この通に面した部分が町屋でしたので、ここに慶庵「雀屋」がお店を構えていたことになります。

ちなみに、第六天社は関東大震災で被災して現在は蔵前一丁目に移転しますので、この辺りも明治時代の設定の名残が見られます。

篠塚稲荷神社の画像。
【篠塚稲荷神社。江戸時代からほぼ同じ位置に鎮座している。】
第六天社跡の画像。
【第六天社跡。この一区画がほぼ社地でした。関東大震災で蔵前一丁目に移転しています。
遠方に停車中のトラック横が篠塚稲荷神社。
慶庵「雀屋」があったとすれば、この角地あたりかと思われます。】
榊神社の画像。
【現在の榊神社(旧称 第六天社)。緑豊かな境内が印象的です。この地は関東大震災までは蔵前工業(現在の東京工業大学)でしたが、関東大震災で甚大な被害を受けて移転しました。】

日本橋から日本橋室町を抜けて柳橋同朋町、柳橋を渡って篠塚稲荷、足を延ばして蔵前の榊神社まで、およそ2.3㎞の道のりでした。

みなさんも古典落語「おふみ」ゆかりの地を歩いてみませんか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です