スキャンダルに揺れる松平子爵家【維新の殿様 松平家・津山藩(岡山県)⑪】

前回見た津山松平家分家の男爵松平斉の失踪は、長く公にされることが無かったので、世間をにぎわすようなことはありませんでした。

しかし、昭和の入ると、松平子爵家をめぐって次々とスキャンダルが流れてしまいます。

「蜂須賀年子」(Wikipediaより20210116ダウンロード)の画像。
【「蜂須賀年子」Wikipediaより】

蜂須賀年子の離婚

蜂須賀年子(1896~1970)は、侯爵蜂須賀正韶の長女年子で、母は公爵徳川慶喜の四女・筆子という超名門の出身です。(『平成新修 旧華族家系大成』)

聖心女学院で学んだ後、大正9年(1920)に東京帝国大学理学部植物科を卒業した松平康春と結婚、夫妻で欧州を漫遊していて(『人事興信録 第7版』)、この時代にヨーロッパに新婚旅行とはさすが名門華族といったところでしょうか。

長期の新婚旅行とはラブラブかと思いきや、だいぶ様子が違うようです。

そのあたりの事情が『明治・大正・昭和 華族事件録』に詳しく記載されていますので、その概要をみてみましょう。

じつはこの結婚、年子本人の意向にはお構いなく、年子の祖父・蜂須賀家茂韶と康春が勝手に決めていたものだったのです。

「蜂須賀茂韶」(『輝く憲政』自由通信社編(昭和12年、自由通信社)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「蜂須賀茂韶」『輝く憲政』自由通信社編(昭和12年、自由通信社)国立国会図書館デジタルコレクション 】

この時代は珍しいことではないとはいえ、年子にしてみれば、明治40年(1907)に母・筆子が亡くなってしまい、自分が母親代わりとなって残された兄弟の面倒を見ていましたので、まだ結婚する気が毛頭なかったのです。

ですので、年子は、本人の意思を確かめもせずに決められた結婚に泣いて抵抗しました。

しかし最後にはあきらめて、十年分の衣裳として帯箪笥四本、下着箪笥三本、足袋箪笥一本をいっぱいに詰め込んだものを持参して嫁入りしたのです。

こんな結婚だったのに、嫁いで早々義父・康民からは「男子を生んでもらいたい」と頼まれる始末。

こうして年子は、四女をもうけたのちに、大正15年(1926)ようやく待望の長男・康を出産、康が成長すると「義務を果たした」気がして、昭和9年(1934)に康春と離婚したのです。

当時、華族社会のみならず上流社会では、特段理由もなく離婚することは極めて珍しいうえに、道徳上問題がある行為として世間から注目を集めることとなったのでした。

年子は離婚すると蜂須賀家に戻り、デザイナーとして活躍するとともに、教育者としても名を残しています。

ちなみに年子が書いた『大名華族』は、家族の華やかな生活の裏側を伝えてくれる貴重な文献となっています。(『明治・大正・昭和 華族事件録』)

松平四郎の戦死

康民の四男で康春の弟・四郎が、昭和12年(1937)10月8日に中国で戦死しました。

雨の中、「この日の戦闘は猛烈を極め松平伍長は〇〇長として真ッ先に泥濘の中を突撃し、敵弾数発を受けるや数十メートル後方の衛生隊仮繃帯所まで泥濘の中を匐ひながら帰らうとして途中で遂に力尽き戦死したもので壮烈な最期であった」と報じられています。(〇は伏字、原文は旧字体、『新聞に見る人物事典』)

四郎は日本陸軍で伍長をしていましたが、第二次上海事変を機に中国全土へと戦火が広がる中での戦死でした。

この事実は、スキャンダルではなく美談として、新聞などで広く報道されたようです。

このように、華族の子弟でも最前線で命をなげうって国のために戦う姿は、戦意高揚につながるとして盛んに報道されていました。

ちなみに四郎は明治34年(1901)生まれ、東京美術学校を卒業し、子爵井伊直方四女・多計子(明治41年生まれ)と結婚し分家、子供は不明ですが妻を残しての弱冠36歳での戦死です。(『人事興信録 10版 下』)

「松平康春」(『輝く憲政』自由通信社編(昭和12年、自由通信社)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「松平康春」『輝く憲政』自由通信社編(昭和12年、自由通信社)国立国会図書館デジタルコレクション】

康春、芸者と銀座で同棲

貴族院議員として活動していた康春は、貴族院の子爵議員でつくる「十六夜会」の新橋宴会で芸者の中村トヨと知り合い、昭和15年(1940)に銀座のトヨ宅で同棲を始めました。(『華族総覧』)

康春は昭和9年(1934)に年子と離婚してからは独り身であるとはいえ、当時としては道徳倫理的に問題がある行動とされたのは言うまでもありません。

しかも、戦争に向かう時局だからなおさらです。

その後、戦災で銀座宅も康春の目黒邸三千坪の豪邸も消失してしまい、熱海の別荘に転居することになりました。(『華族総覧』)

名刀・童子切安綱

津山松平家に代々伝わる家宝のなかに、「童子切安綱(どうじぎり やすつな)(平安時代作)がありました。

この刀は、平安時代の刀工「大原安綱」の作刀で、「童子切」とは、この刀で源頼光が酒呑童子を切ったという伝説によるもの。

「天下五剣」の一つに数えられていますが、その中でも最も古いことから特別な存在とされている名刀中の名刀です。

室町幕府13代将軍足利義晴から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠と、天下人が所有した後、秀忠三女・勝姫が松平忠直に嫁ぐ折に持参してからは、代々津山松平家に伝わり、家宝とされていました。

そして、天下の名刀として昭和8年(1933)に国宝に指定されています。

天下の名刀・童子切安綱を収蔵する東京国立博物館の画像。
【天下の名刀・童子切安綱や石田正宗を収蔵する東京国立博物館】

この名刀を、戦後の混乱期に、財産税などの資金が必要となった康春が8万円で石黒久麻呂なる人物に売ってしまいます。

その後、刀は転売されたり担保になったりして、ついに訴訟に巻き込まれるまでになり、昭和38年(1963)に文化庁が二千六百万円で買い上げたのでした。(以上『華族総覧』)

現在は、「天下五剣」の一つ三日月宗近や、津山松平家伝来の石田正宗とともに東京国立博物館所蔵となって、刀剣ファンたちに愛されています。

こうしてスキャンダルの絶えない昭和初めの松平子爵家ですが、その実態はどうだったのでしょうか?

次回は、文豪・谷崎潤一郎の作品から松平子爵家の実像に迫ってみたいと思います。

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