七草粥ってなに? 七草粥②

前回は我が家の七草粥のレシピをご紹介しました。

ところで、七草粥ってなに?どうして、いつから食べるようになったの?

知っているようで知らない七草粥の起源を探ってみると、日本古来のものと中国由来のものの二つがあって、これが混ざり合って七草粥の風習が誕生したことが分かったのです!

そこで今回は、七草粥の秘められた歴史を探ってみたいと思います。

「七草かゆ」(『三州奥郡風俗図鑑』松下石人(正文館、昭和11年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「七草かゆ」『三州奥郡風俗図鑑』松下石人(正文館、昭和11年)国立国会図書館デジタルコレクション】

七草粥 目次①七草粥作ってみました②七草粥ってなに?③どうして七草粥? 

七草粥とは正月明けの1月7日に、食べると万病を除く(病気にならない)と言われる春の七草を入れた粥を食べる行事です。

七種と書くこともあります。

春の七草の画像。
【春の七草】

春の七草とは、セリ(芹)、ナズナ(薺・ぺんぺん草)、ゴギョウ(御形)、ハコベラ(繁縷・はこべ)、ホトケノザ(仏座・たびらご)、スズナ(菘・かぶ)、スズシロ(蘿蔔・だいこん)の七菜を指します。

古代から日本では正月最初の子の日に野に出て野草を採集する「若菜摘み」の習慣がありました。

これがのちに、正月七日に行う行事として定着したのです。

そこでは野で摘んだ若菜は粥などに入れて食べ、一年間の無病息災を祈っていました。

葛飾北斎「初若菜」(1798 大英博物館 )の画像。
【葛飾北斎「初若菜」1798 大英博物館 楽しい若菜摘みの様子がよく分かります。】

一方、もう一つの七草粥の源流は、中国から伝わった習慣です。

古代中国では、正月一日を鶏の日、二日を狗(犬)の日、三日を猪(豚)の日、四日を羊の日、五日を牛の日、六日を馬の日として、その日には該当する家畜を殺しませんでした。

そして七日を人の日として占って無病息災を祈る習慣があり、この占いに七種羹(あつもの・熱い吸物)を用いていたのです。

この行事が平安時代後期に日本に伝えられると、羹が粥に変化し、七種粥を食べる習慣へと変化したのです。

そして、延喜年間(901~923)からは朝廷で、七種粥(米・アワ・キビ・ヒエ・ミノ・ゴマ・小豆あるいは米・大麦・小麦・アワ・キビ・大豆・小豆)を食べる儀礼として定着します。

若菜摘(喜多川歌麿、メトロポリタン美術館)の画像。
【「(若菜摘)」喜多川歌麿、メトロポリタン美術館】

そしてその後、この七草粥と若菜摘みが、もとの意味を失い混同されて、現在の七草に近いものが鎌倉時代に誕生しています。

つまり、正月七日に七草を摘み、これをまな板に載せて囃したたき(七草の囃し)、餅とともに粥に入れて食べるという風習が生まれたのです。

この「七種(草)の節」では、6日を六日年取り、7日を七日正月、七日節句などと呼び、6日の夜から7日の朝にかけて様々な行事が行われていました。

また、中国由来のものは、現在も正月十五日に小豆を入れた粥を食べる風習である「小豆粥」として残っています。

そして、江戸時代に将軍家で人日(じんじつ)として五節句の一つに数えられていたのも、その名前は中国での行事に由来しています。

しかしその内容は、将軍以下が無病息災を祈って七草粥を食べるものとなっており、中国の行事ではなく日本的な内容へと変化しているのです。

ここまで七草粥の起源が、日本古来のものと中国由来のものの二つあって、これが混ざり合って今日の風習が生まれたことが分かりました。

次回では、七草粥の風習に込められた意味を見ていきたいと思います。

「春の七草」(『山国の風土記』酒井朝彦(三省堂、昭和18年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「春の七草」『山国の風土記』酒井朝彦(三省堂、昭和18年)国立国会図書館デジタルコレクション】

七草粥 目次①七草粥作ってみました②七草粥ってなに?③どうして七草粥? 

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