五島盛光の挑戦【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㊷】

前回みたように、大正4年(1915)ころまで、内務省嘱託として特殊部落改善に取り組んだ盛光は、思わぬ行動に出るのです。

それは、東京から五島へ引っ越すというものでした。(『華族名簿 大正5年3月31日調』)

今回は、五島盛光の新たな挑戦をみてみましょう。

福江市街遠望(『長崎大観:大典記念』中川観秀(長崎新聞社、1916)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【福江市街遠望(明治時代末ころ)『長崎大観:大典記念』中川観秀(長崎新聞社、1916)国立国会図書館デジタルコレクション 】

五島への帰還

長崎県南松浦郡福江村福江郷15番地にあった、盛光の義祖父・五島盛成が作った隠殿屋敷は、盛成が死去した後は空き家になっていました。

ひょっとすると、これまで盛光は五島へ行ったことがなかったのかもしれません。

五島に入った盛光は、長崎県立長崎中学校で教職に就きました。(『議会制度七十年史』)

あるいは、自身が設立に寄与した五島中学校への赴任を望んだのかもしれません。

長崎県立長崎中学校仮校舎(『長崎県会事績 上巻』長崎県 編集・発行、1912、国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【盛光が在職したころの長崎県立長崎中学校仮校舎『長崎県会事績 上巻』長崎県 編集・発行、1912、国立国会図書館デジタルコレクション 】

貴族院議員へ

こうして長崎県立長崎中学で教職について5年間たった大正10年(1921)再び盛光は大きく進路を変更して、貴族議員に互選されたのです。(『人事興信録 6版』)

盛光の貴族院議員当選を伝える『読売新聞』大正10年(1921)5月9日付朝刊によると、この選挙は美作国津山藩松平子爵家松平康民が在任中に死去したことに伴う補欠選挙でした。

こうして貴族院議員となった盛光は、貴族院で最大会派だった研究会に属して議員活動を行っています。

ところがその矢先の大正12年(1923)5月30日、盛光は東京で急逝してしまったのです。(『議会制度七十年史』)

貴族院議員になってわずか2年とまだ任期の半ば、51歳の働き盛りでのあまりにも突然の死去でした。

そして、盛光は五島家の菩提寺である福江の大円寺に葬られています。

五島市大円寺正門(撮影者:Nami-ja Wikipediaより20210905ダウンロード)の画像。
【五島市大円寺正門(撮影者:Nami-ja Wikipediaより)】

盛光の遺志

盛光のあまりにも若すぎる死は、彼の持つ志の高さを知っただけに、あまりにも残念に思いませんか?

しかし、盛光が五島発展への功績を、地域の人たちは決して忘れていないようです。

長崎県立五島中学校(『長崎県会事績 上巻』長崎県 編集・発行、1912、国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【明治時代末ころの長崎県立五島中学校『長崎県会事績 上巻』長崎県 編集・発行、1912、国立国会図書館デジタルコレクション 城門をそのまま学校の門に使っているのがわかります。 】

旧石田城内のある長崎県立五島高校に五島盛光の銅像を建てて顕彰しているだけではありません。

長崎県立五島高校設立100周年にあたる2000年には、五島高校在校生が「盛光公とバラモン」というねぶたを作って二日にわたり「福江まつり」で町中を引き回しました。(『朝日新聞』2009年9月23日朝刊(長崎版))

「バラモン」は五島で男子が生まれた際にあげる凧のことで、島を象徴する存在です。

これと五島盛光の像を合わせて盛光の功績を顕彰するとともに、心からの感謝を表しました。

こうしてみると、盛光の遺志を五島高校の卒業生たちはしっかりと受け継いでいるのです。

長崎県立五島高校(撮影者:
Norio NAKAYAMA Wikipediaより20210905ダウンロード)の画像。
【長崎県立五島高校(2012年、撮影者:
Norio NAKAYAMA Wikipediaより) かつての石田城の石垣がそのまま使われています。】

ここまで子爵五島盛光の生涯をみてきました。

次回は、五島子爵家の終焉をみてみましょう。

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