五島藩六本木上屋敷と五島子爵家鳥居坂邸を歩く・後編【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編 45】

前回は六本木交差点から出発して、鳥居坂から於多福坂、永坂と歩いてきました。

今回はまず、見えてきた三角形をした小さな公園「永坂上遊び場」で休憩しながら、五島藩上屋敷と抱え屋敷についておさらいしてみましょう。

永坂上遊び場の画像。
【永坂と永坂上遊び場】

五島藩六本木上屋敷

五島藩は、上屋敷を元禄15年(1702)12月まで麻布市兵衛町を下賜されていました。

その後、享保8年(1723)6月4日に場所振替となりますが、それ以降は麻布六本木に下賜されていました。

屋敷の広さも、2,500坪と変わっていません。(『江戸幕藩大名家事典』)

安政2年には「御番医師岡仁庵抱屋敷借置 麻布永坂 403坪5合」と記されていますから、幕府お抱の医師・岡仁庵の個人所有地を借りています。

「東都麻布之絵図」(戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永4年〔部分に加筆〕)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「東都麻布之絵図」戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永4年〔部分に加筆〕)国立国会図書館デジタルコレクション 】

五島藩上屋敷の役割

本編でみたように、五島藩の藩主は、異国船警護の任にあったために参勤を免除されることが多く、行われたのは江戸時代を通じて30回のみ。(第25回「異国船警備役とは?」参照)

ですから、藩主は国許で暮らすことが多かったのですが、それでも証人つまりは人質の妻子は江戸で暮らす必要がありました。

五島藩は石高15,530石の小藩ですが、拝領した上・下屋敷では手狭だったようです。

岡仁庵屋敷

ところで、この岡仁庵抱屋敷を江戸切絵図で探してみると、五島藩上屋敷の南隣に不正形の「岡仁庵」の文字が見えるのが五島藩の借りていた屋敷で、403坪5合の広さといえば、この屋敷全体とみてよいでしょう。

上屋敷と「岡仁庵」屋敷は背中合わせに接していて、当時は通行ができたでしょうから、永坂にむけて作られたこの屋敷の正門が、裏門的役割を果たしていたのでしょうか。

五島子爵家鳥居坂邸

その後、明治時代になると、明治4年(1871)7月14日をもって廃藩置県が断行されたことにより福江(五島)藩が消滅しました。

時の当主五島盛德は藩知事を解職されて、9月に命を受けて上京し、もとの五島藩上屋敷である東京麻布鳥居坂町22番地を下賜されて、ここに邸宅を構えています。(『華族銘鑑:鼇頭』長谷川竹葉編(青山堂、1875))

しかしそのわずか4年後の明治8年(1875)11月11日、病にかかり東京の邸宅で死去してしまったのです。(『物語藩史』『三百藩藩主人名事典』、第40回「藩消滅」参照)

邸宅を手放す

父・盛德が急逝したとき、その跡を継いだ盛主はまだ8歳でしたので、東京麻布鳥居坂町の邸宅を残して五島に住む祖父・盛成の下で養育されました。(『華族部類名鑑』安田虎男(細川広世、1883)明治16)

そして、明治14年(1881)には、鳥居坂邸の南半分を麻布区が区役所移転地として買収しているので(『麻布区史』)、このころ邸宅を処分したと思われます。

その後、盛主は成人すると上京して東京府麴町区三番町十番地に邸宅を構え(『華族名鑑 新調更正』彦根正三(博公書院、1887))佐貫藩阿部正恒二女の興(おき)(明治3年(1870)8月11日生まれ)と結婚、さらに明治17年(1884)に子爵に叙されました。(第40回「藩消滅」参照)

東鳥居坂町付近(『東京市及接続郡部地籍地図』麻布区〔部分〕、東京市区調査会 編集・発行、大正元年、国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【東鳥居坂町付近『東京市及接続郡部地籍地図』麻布区〔部分〕、東京市区調査会 編集・発行、大正元年、国会図書館デジタルコレクション 中央に「麻布小学校」「文」記号が確認できます。】

麻布小学校移転

ちなみに、区役所が移転するはずだった鳥居坂邸の跡地には、麻布市兵衛町から麻布小学校が移転してきました。

その理由について『麻布区史』は、市兵衛町が繁華すぎて教育にふさわしくないので、区役所用地と小学校用地を取り換えたとしています。

じっさいに、市兵衛町には区役所が建設されたのですが、この建物は1階が区役所、2階が集合住宅という当時としてはユニークな作りだったようです。

岡仁庵屋敷跡を歩く

それでは、散策に戻りましょう。

さて、麻布通から永坂が分岐した北側、今休んでいる公園の斜め向かいに、階段があるのが見えてきました。

おそらく、ここから北が岡仁庵の屋敷跡地、今は瀟洒なマンションが建っています。

そこからさらに永坂を北に歩くとすぐに、西に向かい細道があって、その角におしゃれなウィンドーを持つお店が見えてきました。

このあたりが岡仁庵屋敷の北東隅にあたる場所。

この細道は切絵図にはない道ですし、明治東京全図にもこの道はありませんが、旧下野国吹上藩主有馬氏弘邸と伊予国西条藩主松平頼英邸の境界でしょう。

岡仁庵屋敷の推定地、北東隅付近の画像。
【岡仁庵屋敷の推定地、北東隅付近】

邸宅の痕跡?

永坂からこの道へ進んでみると、高級マンションが見えてきました。

このマンションの境をよくみると、一部に切り石積の塀が残っているのが確認できます。

明治時代ころの作かと思われますが、明治東京全図によると有馬氏弘邸の西端に当たっているようです。

ひょっとすると、この切り石積の塀は、明治時代からのものなのかもしれませんね。

わずかに残る切り石積の塀の画像。
【わずかに残る切り石積の塀 手前の新しい石の塀と、奥のコンクリート製塀に挟まれて、一列だけ残っています。】

外苑東通りを歩く

この道をさらに進むと、道が北へ曲がっていました。

ここは切絵図にも明治東京全図にも記載されていない道で、外苑東通りまで続いています。

そして外苑東通りとの交差点には、おしゃれなカフェのある現代的なデザインの建物が見えてきました。

これがBOATRACE六本木、周辺には洗練されたデザインの建物が多く、いかにもおしゃれな街・六本木にいるのだと実感されられます。

五島藩六本木上屋敷北端の外苑東通り、東からの画像。
【五島藩六本木上屋敷北端の外苑東通り、東から】

外苑東通りを西に進むと、すぐに六本木5丁目交差点に戻ってきました。

ここで、五島藩上屋敷と抱屋敷(岡仁庵屋敷)をぐるっと一周です。

そのまま西に進むと、スタート地点の六本木交差点に到着、東京メトロ日比谷線六本木駅3番出口は目の前、およそ1.2㎞の散策はここでおしまいとなります。

「優雅そのもの」の鳥居坂界隈

テレビ局や六本木ヒルズに象徴されるように、現在は六本木といえばおしゃれな街というイメージが広がっているのではいでしょうか。

いっぽうで、五島藩上屋敷があったころはといえば、御屋敷街ですし、明治に入ると文教施設や家族の邸宅が並ぶ街で、緑の多い静かな町だったのでしょう。

すっかり様変わりしたとはいえ、村岡花子が「優雅そのもの」とたたえた鳥居坂界隈の雰囲気をたっぷりと味わえた散策でした。

旧五島藩上屋敷跡地越しにみる六本木ヒルズの画像。
【旧五島藩上屋敷跡地越しにみる六本木ヒルズ】

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献など

「東都麻布之絵図」戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永4年)

「明治東京全図」市原正秀原著・朝倉寛校訂(東京書肆、明治9年)

『華族銘鑑:鼇頭』長谷川竹葉編(青山堂、1875)

『華族部類名鑑』安田虎男(細川広世、1883)明治16年

『華族名鑑 新調更正』彦根正三(博公書院、1887)

『麻布区史』東京市麻布区 編集・発行、1941

『東京の坂道 -生きている江戸の歴史-』石川悌二(新人物往来社、1971)

「五島藩」森山恒雄『新編 物語藩史』第十一巻、児玉幸多・北島正元監修(新人物往来社、1975)

『東京文学地名辞典』槌田満文 編(東京堂出版、1978)

『角川日本地名大辞典 13東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)

「五島藩」森山恒雄『三百藩家臣人名事典』第七巻、家臣人名事典編纂委員会編(新人物往来社、1989)

『江戸幕藩大名家事典』中巻、小川恭一編(原書房、1992)

港区設置の案内板

参考文献:

『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市区調査会、1912

『東京市及接続郡部地籍地図』東京市区調査会、1912

『港区史』東京都港区役所 編集・発行、1960

『新修 港区史』東京都港区役所 編集・発行、1979

次回は、五島藩白金下屋敷跡を歩いてみましょう。

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