国葬第1号・岩倉具視が亡くなった日・7月20日

7月20日は、明治16年(1883)に明治維新の元勲・岩倉具視が亡くなった日です。

その後、岩倉は特旨国葬が行われ、「国葬」の第一号となったのです。

安倍晋三元首相の国葬をひかえて、岩倉の生涯と国葬の歴史を振り返ってみましょう。

岩倉具視(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【若き日の岩倉具視(出典:近代日本人の肖像)】

岩倉具視略歴

文政8年(1825)9月25日に権中納言堀河康親の二子として産まれ、天保8年(1837)岩倉具慶の養子となりました。

安政元年(1854)に孝明天皇の侍従、ついで近習となり、天皇側近として仕え、政治に関わるようになります。

条約勅許問題では、安政5年(1858)に日米修好通商条約の勅許を求めて入京した老中堀田正睦を失敗させて窮地に追い込みました。

その後、文久元年(1962)公武合体を唱えて和宮降嫁に尽力して成功させたものの、久我建通ら尊皇攘夷派に弾劾されて失脚し、洛北の岩倉村に籠ります。

この間に薩摩藩はじめ討幕派と接近し、慶応3年(1867)明治天皇のもとで王政復古のクーデターを挙行して、新政府の中枢となったのです。

明治維新後も明治4~6年(1871~73)に岩倉使節団を率いて欧米を歴訪するなど、政府の中枢に留まり、重鎮として活躍しました。

また、宮廷改革を実施し、皇室財産確立を目指すなど、近代天皇制の確立に努めています。

明治16年(1883)7月20日に東京で病没、59歳でした。

岩倉具視(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【岩倉具視(出典:近代日本人の肖像)】

死去に伴い、廃朝三日、つまり天皇が政務につかない日を三日間設けたうえ、特旨で葬儀御用掛が設けられて、葬儀一切の事務を執り行っています。

国葬令制定まで

先ほど見たように、明治16年(1883)明治維新の元勲・岩倉具視の死に際して最初の国葬が行われました。

ここから国家に功績のあった人物の死去に際して、国家の儀式として国費で行う葬儀・「国葬」がはじまったのです。

じつは岩倉の「国葬」は、太政大臣の決定で実施されたもので、当時は「国葬」の名称は使用されていませんでした。

続いて明治20年12月に死去した島津久光についても、大蔵大臣の決定により葬儀にかかる諸費用が国の負担となっていますが、ここでも「国葬」の名称は使用されていません。

はじめて「国葬」の名が使用されたのは、明治24年(1891)2月18日に死去した三条実美の葬儀です。

三条の死の翌日に、勅令一四号「内大臣正一位大勲位公爵三条実美薨去ニ付特ニ国葬ヲ行ウ」にのっとって葬儀が「国葬」として行われました。

その後も、明治28年の有栖川宮熾仁親王、同年の北白川宮能久親王、明治29年の毛利元徳、明治30年の島津忠義、明治36年の小松宮彰仁親王、明治42年の伊藤博文、大正2年有栖川宮威仁親王、大正5年大山巌、大正8年徳寿宮李太王煕、大正11年山県有朋、大正12年伏見宮貞愛親王、大正13年松方正義、大正15年昌徳王李拓について、国葬が行われています。

これらはすべて、そのつど国葬を行う旨の勅令を発して行われました。

大山元帥国葬の霊柩(『大山元帥』西村文則(忠誠堂、大正6年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【大山元帥国葬の霊柩(『大山元帥』より)】
李太王国葬の様子(『幕末明治大正回顧八十年史 第20輯』東洋文化協会 編集・発行、1937 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【李太王国葬の様子(『幕末明治大正回顧八十年史 第20輯』より)】

国葬令

大正15年(1926)10月21日には国葬令(勅令第三二四号)が制定されて、国葬は制度化されることになります。

第一条では「大喪儀ハ国葬トス」、第二条「皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及摂政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ国葬トスル」と、天皇および皇族・宮家のメンバーを国葬とすることに定めています。

第三条「国家ニ偉勲アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘシ」と、国家に「偉勲」がある者のなかで、特旨があった場合について国葬とすることに定めたのです。

また、皇族以外の人物の国葬については、葬儀当日は廃朝とし、国民は喪に服することが求められています。

さらに、皇族以外の葬儀の形式については、内閣総理大臣が勅裁を経て定めることとして、神道式以外の葬儀形式で国葬が行われる可能性を残しています。

この国葬令の下では、昭和9年東郷平八郎、昭和15年西園寺公望、昭和18年山本五十六、昭和20年閑院宮載仁親王が国葬とされました。

東郷平八郎元帥の国葬(『晩年の東郷元帥』小笠原長生(改造社、1934)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【東郷平八郎元帥の国葬(『晩年の東郷元帥』より)】
西園寺公望の国葬(Wikipediaより20220719ダウンロード)の画像。
【西園寺公望の国葬(Wikipediaより)】

国葬令廃止以降

国葬令は、昭和22年(1947)4月の法律第七号により、同年12月31日限りで失効しました。

終戦後は、国葬に関する特別な規定は設けられませんでした。

昭和天皇崩御の際に行われた「大喪儀」は国葬ですが、そのほかの皇族が死去された場合でも、国葬は行われていません。

また、昭和42年(1967)吉田茂の国葬は、閣議決定で行われています。

吉田茂(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【吉田茂(出典:近代日本人の肖像)】

現在、国葬について規定はなく、戦後の首相経験者についても、大勲位を受勲した佐藤栄作と中曽根康弘、さらには首相在任中に死去した大平正芳や、昭和の名宰相とよばれる田中角栄、「憲政の神様」尾崎行雄についても国葬は行われませんでした。

こうしてみると、国葬が行われるかどうかの法的基準がないのは間違いありません。

確かに、首相在任期間が最長となった安倍晋三の功績は大きなものではあります。

とはいえ、法的裏付けのない国葬を実施するのであれば、その基準を明確にしたうえで、国会での承認など国民や国民の代表である議員による信託を経て実施する必要があるのではないでしょうか。

岩倉具視(出典:近代日本人の肖像)〔部分〕の画像。
【岩倉具視(出典:近代日本人の肖像)〔部分〕】

(この文章では敬称を略させていただきました。

また、本文執筆にあたっては、『国史大辞典』『明治時代史大辞典』『日本史大事典』を参考に執筆しています。)

きのう(7月19日

明日(7月21日

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