大浜主水事件・訴状編(維新の殿様・五島(福江)藩五島家編⑳)

前回は大浜主水事件のはじまりをみてきました。

今回は、大浜主水の訴えの内容をみてみましょう。

訴状の内容

主水が将軍秀忠に直訴した内容は、以下の5つでした。

(1)江戸証人(大名が幕府に差し出した人質)は藩主盛利の娘ではなく、出家の捨て子を拾って送ったもので、公儀を偽っていること。

(2)藩主盛利は藩主五島家に繋がる人物ではなく、前代大浜主玄雅の芳志で入り婿して継嗣したにもかかわらず、その恩を忘れて妻を離別するような非道の人物である。

(3)藩主盛利は将軍家に二心を持っていて、去る大坂の陣には書状を二様に作り、関東、大坂両軍の旗色いかんで奉書するようにと言いつけていたこと。

(4)藩主盛利は極悪非道の松尾(旧姓田尾)九郎右衛門に不義の儀を許し、骨肉の実子を捨て、また先君玄雅の子を押し込めたように言語道断の人であること。

(5)五島家の正統は先代玄雅の子千鶴丸で、盛利の嫡子盛次ではないこと。

前回みたように、幕府が豊臣恩顧の外様大名を次々と取り潰していたこの時期ですので、(1)か(3)が本当であれば、それだけで十分改易になるような内容に驚かずにはおれません。

乱れた人間関係

ちなみに前回みた(5)の千鶴丸とは玄雅の実子・長田千鶴丸のことで、主水は千鶴丸あるいはその弟の孫三郎が家督を相続すべきと言っているのです。

さらに(4)の松尾九郎右衛門勝慶について補足しておきましょう。

勝慶の先祖は宇久純定の時代に五島に招いたといわれ、その子九郎兵衛が五島の名門田尾三郎太夫家を継いで田尾九郎兵衛を名乗るようになったといいますから、宇久五島家のお気に入り側近だったわけですね。

そして盛利の姉千代が五島の名門で家老格だった松尾権左衛門に嫁いだのですが、この権左衛門が急逝してしまいました。

すると、盛利は勝慶にわざわざ妻を離縁させて千代と再婚させて松尾家を継がせたのです。

藩主側近の傲慢

さらにこの松尾勝慶という人物は、藩主の義兄になったことで威張りちらす傲慢なところがあったようで、家臣たちからかなり嫌われていました。

また、お気に入りを家老に据えるために仕組んだ盛利のはかりごとは、たしかに道徳的に問題がある強引なやり方であるのはまちがいない事実。

ここまでみると、主水が「盛利は極悪非道の松尾九郎右衛門に(妻に瑕疵がないのに自分の勝手な都合で離縁するという)不儀の義を許している」というのは、全く事実そのもで、盛利側は申し開きできるものではありません。

藩主盛利の「非道」

さらにまた、主水の妻、つまり盛利の妹の孝子が、この松尾家を継ぐ前の田尾九郎右衛門と不義、いまでいう不倫関係にあったといいますから、当時の法に照らすと二人はともに極刑となってもおかしくないところです。

それなのに、不義が発覚すると藩主盛利は主水から孝子を取り上げて、同じく藩主お気に入りの外様家臣・七里権十郎と結婚させるというありえない対応に出ました。

この二つの件での藩主盛利の対応は、主水に「非道な人物」とそしられているのですが、まさにすべてが事実そのものでした。

これらの人倫を踏み外した「非道」によって、盛利に対する家臣たちの怒りはおおいに高まるとともに、主水の行動に連判するものが多くなって、一時は盛利の生母や夫人をはじめとして家臣の三分の二が主水側に味方する事態に発展したのです。

今回見たように、大浜主水の主張には、多くの真実がありましたので、五島藩内で広く支持を集めるまでになりました。

窮地に追い込まれた藩主・盛利、五島藩はどうなってしまうのでしょうか。

次回は、事件の背景をさらに探っていきたいと思います。

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