天童と将棋駒の出会い【維新の殿様・出羽国天童藩(山形県) ⑨】

前回、天童家の切り札、吉田大八が登場するまでを見てきました。

そこで今回は、大八の時代にどのように藩政改革に取り組んだのかを見てみましょう。

蕎麦献上

紅花専売の失敗に見るように、領地が散在しすぎて領国の形態をなしていない天童では、新田開発などの農政で増収を図るのはまず無理といっていいでしょう。

この事態を改善するべく、なんとか紅花に続く藩の特産品をつくりたいところです。

そこで、『嘉永七年武鑑』によると、2月に小豆と暑中葛、8・9月内に干狗脊、在着御礼干鯛、寒中挽抜蕎麦を将軍に献上しました。(『江戸幕藩大名家事典』)

干鯛は進物の定番ですが、そのほかのもの、なかでも蕎麦を特産品にしたかったのではないかと私は思います。

というのも、東北からの蕎麦献上は私がみたところはじめてですし、ほかの産物も献上でブランド化をねらっていたのかもしれません。

ただしこれらの献上品ラインナップは、ちょっと見栄えしない感じがするのもまた事実、残念ながら天童の特産品とはなりませんでした。

「将棋三十六歌仙 中納言謙輔」(鈴木春信、1767~68 大英博物館 )の画像。
【「将棋三十六歌仙 中納言謙輔」鈴木春信、1767~68 大英博物館 】

貧乏脱出計画その3・将棋の駒

このように藩財政が好転する見込みが立たないなか、藩士たちの生活の困窮はますます深まっていきます。

だからこそ大八は、藩士の収入を俸禄以外で補うのが良作と考えたのでしょう。

そこで大八は、米沢から将棋駒製造職人の大岡力次郎と河野道介を招いて指導をさせて、下級家臣の手内職として将棋の駒製作を奨励したのです。(「天童将棋駒」)

元治元年(1864)吉田大八が用人役にあったころのことでした。(『将棋の博物誌』)

計画の背景

背景にあるのは、江戸後期における将棋の流行です。

江戸時代後期になると、江戸や上方の都市部を中心に将棋が庶民の間で流行するようになりました。

湯屋の二階で江戸庶民が将棋に興ずる姿は式亭三馬『浮世風呂』などにも描かれているほか、川柳でも盛んに読まれていますし、縁台将棋がよく見られるようになったのもこの時期です。

こうした将棋の流行によって、それまでの書き駒から彫り駒へと進化し、彫埋め駒・盛上げ駒といった上級駒が登場した一方で、急増した需要の大半は手ごろな値段の駒でした。

ここに大八は目をつけたわけですが、これは卓見といってよいでしょう。

将棋駒制作手順と道具(「天童将棋駒」篠崎高之助・栗林剛『郷土研究 第2輯』山形県女子師範学校編(山形県女子師範学校、1937)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【将棋駒制作手順と道具「天童将棋駒」篠崎高之助・栗林剛『郷土研究 第2輯』山形県女子師範学校編(山形県女子師範学校、1937)国立国会図書館デジタルコレクション 】

天童と将棋の縁

ただし、当時天童で将棋を知るものはほとんどない状態でした。

ところが、かつて山県大弐から講義の合間の余興として吉田玄蕃が将棋を習っていて、吉田家では代々将棋を習う習慣があったといいます。(「天童将棋駒」)(第3回「明和事件勃発」参照)

しかも、生産を始めるにしても必要な資本は少なくてすみますし、大都市から離れている天童にあっても比較的運搬コストが低い駒ならば、さほど不利にならないと考えたのでしょう。

こうしてみると、将来的には天童を支える独自の産業にまで育成することを期待しての施策だったのかもしれません。

そこで手始めに、まずは天童周辺に将棋を楽しむ習慣を広めつつ、その道具である駒を製作することにしたのです。(「天童将棋駒」)

計画の内側

でもよく考えてみてください。

駒の原料になる材木は天童藩では産していませんし、市場である大都市への販路も持ち合わせていません。

つまりは問屋などの商業資本と組んで、その下請けとなっているわけですから、この時点で地域に大きな利益をもたらすということは期待できそうもないのです。

将棋駒製作・書方(「天童将棋駒」篠崎高之助・栗林剛『郷土研究 第2輯』山形県女子師範学校編(山形県女子師範学校、1937)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【将棋駒製作・書方「天童将棋駒」篠崎高之助・栗林剛『郷土研究 第2輯』山形県女子師範学校編(山形県女子師範学校、1937)国立国会図書館デジタルコレクション 】

おそらく大八はそんなことは百も承知の上で、なによりもまず第一に藩士の窮乏を救うことを目指したのでしょう。

じつは、大八は藩政改革には天童の富裕な商人たちの協力が不可欠と考えていましたので、彼らの支持もすでに取り付けていたのです。(『物語藩史』)

あるいは、将棋の駒政策を入り口として、大八はもっと大きな地域振興策を考えていたのかもしれません。

大八の作戦

江戸時代に藩が率先して家臣に学問や武芸ではなく内職を勧めることだけでなく、もちろん手内職をすること自体に家臣たちの反対があったのは当然のことです。

これに大八は、みずから「将棋は兵法戦術に通じ、武士の面目を気づつけるものではない」といって奨励したり(天童市HP)、信長が「将棋は作戦の秘訣なり」といった故事を引用して藩主・信学や藩重役を説得して奨励してもらったり(「天童将棋駒」・『ものと人間の文化史』)と、あの手この手を使ったのでした。

天童藩主が人間将棋を行ったというのも(『日本将棋集成』)、この策の一環なのでしょう。

こうした大八の努力があって、藩の承認を得たことで、ようやく天童で将棋の駒製作が根付きはじめたところに、明治維新の激動がやってきたのです。

「妙でん老十六利勘」〔部分〕(歌川国芳、1845 大英博物館 )の画像。
【「妙でん老十六利勘」〔部分〕歌川国芳、1845 大英博物館 】

天童の将棋の駒製作はどうなったのでしょうか?

それは最終回(第16回「いでゆと将棋の町・天童」参照)で見ることにして、次回は戊辰戦争に巻き込まれていく天童藩をみてみましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です