小笠原勁一の時代【勝山藩小笠原家編(福井県)㊱】

前回まで子爵小笠原長育の歩みをみてきました。

そこで今回は、長育の跡を継いだ嫡男勁一についてみてみましょう。

小笠原勁一(おがさわら けいいち・1886~1919)

小笠原勁一は、明治19年(1886)5月31日、子爵小笠原長育の長男として東京で生まれました。

父・長育の急逝に伴って、わずか9歳で明治28年(1895)3月14日に家督を継ぐとともに襲爵しています。

家督相続後はまだ幼かったこともあって、旧領国の福井県勝山町に戻りましたので、本籍地は福井県です。

小笠原勁一(Wikipediaより20211006ダウンロード)の画像。
【小笠原勁一(Wikipediaより)】

上京後の勁一

その後、明治39年(1906)ごろには進学のために上京、早稲田大学政治経済科卒に入学します。

明治43年(1910)に早稲田大学を卒業し、大正3年(1914)に帝室林野管理局属となっています。

帝室林野管理局は、皇室が所有する山林を管理する部署でしたので、華族にふさわしい仕事の代表例といえるものでした。

『朝日新聞』大正5年(1916)9月5日付東京版朝刊によると、勁一は帝室林野管理局の中でも庶務担当だったようです。

勁一の結婚

『読売新聞』大正5年(1916)4月25日付婦人付録「新郎新婦」には、写真付きで紙面中央に大きく勁一(31)と喜久子(19)の結婚記事が掲載されています。

記事によると、式は11月5日に日比谷大神宮で、実業家の若尾幾造夫妻を媒酌人として行われ、同日華族会館で披露宴を行いました。

なお、記事には新婦は松本高等女学校卒業とありますが、これは新婦の父で勁一の叔父にあたる子爵柳生俊久陸軍大佐が、松本連隊区で司令官を務めていたためでしょう。

じつは、勁一にとって喜久子(『人事興信録 第5版』では喜久)とは再婚でした。

叔父の柳生俊久子爵の長女で喜久子の姉・壽美子(明治27年8月生)と結婚していましたが、明治44年(1911)12月に死去してしまったのです。

小笠原子爵家千駄ヶ谷新町裏邸宅跡推定地の画像。
【千駄ヶ谷新町裏897番地、現在の渋谷区代々木2丁目27番地の小笠原子爵家邸宅跡推定地。小田急小田原線南新宿駅前のくぼ地で、新宿の高層ビル群を仰ぎ見る場所です。】

勁一の幼年期

勁一は、34年の生涯で引っ越しを繰り返しました。

生まれたのは父・長育が牛込区弁天町76番地(現在の新宿区弁天町76番地付近)に屋敷を構えていたころです。

その後、父の転居に従って、牛込区北町13番地(現在の新宿区北町13番地付近)、さらに赤坂区青山北町6丁目36番地(現在の港区南青山5丁目1-10付近)に移り、幼年期を過ごしています。

その後、父・長育の急逝に伴って、旧領国の福井県大野郡勝山町9番地で青年期を送りました。

千駄ヶ谷時代

勁一が成長すると上京して早稲田大学への進学へと進学します。

これにに伴って、明治39年(1906)ごろ上京して東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町大字千駄ヶ谷字新町裏897番地、現在の渋谷区代々木2丁目27番地付近に屋敷を構えたのです。

そのまま千駄ヶ谷で暮らして壽美子と結婚、家庭生活を送ります。

ところが、明治44年(1911)12月に妻が死去したことを契機として、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町大字原宿字南原宿209番地、現在の渋谷区神宮前3丁目17番地付近へと引っ越しました。

さらに、大正5年(1916)の喜久子との結婚前後に、北豊島郡目白停留所上上リ屋敷、現在の豊島区目白3丁目1番地付近へと引っ越しています。(『華族名簿 大正5年3月31日調』)

大正6年(1917)3月には貴族院議員となって、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町大字千駄ヶ谷字新田856番地、現在の渋谷区代々木1丁目55~58番地付近へと移り、この地で死去しました。

若尾家の支援

勁一が邸宅を構えたのは、いずれも閑静な住宅地。

借家だとしても、家産のほとんどない帝室林野管理局の給料だけでは住めないような場所ですので、彼を支援したものの存在がうかがえるのです。

これは、先代長育の代に築かれた小笠原家と若尾家の強いつながりからみて、勁一は若尾家から支援を受け続けていたのでしょう。

小笠原子爵家千駄ヶ谷新田邸跡地付近の画像。
【小笠原子爵家の千駄ヶ谷字新田854番地、現在の渋谷区代々木1丁目55~58番地の邸跡地付近。JR代々木駅前の繁華な場所となっています。当時は紀州徳川侯爵家徳川頼倫の家作が立ち並んでいました。】

貴族院議員

その後、大正6年(1917)3月の貴族院の子爵議員補欠選挙で当選して貴族院議員となりました。

しかし、大正8年(1919)11月3日に勁一は急逝してしまいます。

葬儀は菩提寺の浅草海禅寺で行われて、同寺に葬られました。

勁一、スペイン風邪に死す

『大正過去帳』によると、この時、勁一は風邪を病み東京市外千駄ヶ谷の自宅で療養中のところ、午前になって病状が急変して亡くなったのでした。

勁一が「風邪」をこじらせて亡くなった大正8年(1919)は、前年からスペイン風邪(A型インフルエンザ・H1N1亜型)が世界的に大流行、パンデミックを引き起こした時でした。

第1次世界大戦と相まって流行は収まるところを知らず、全世界で患者数約6億人、2,000~4,000万人が死亡したとされています。

大正8年(1919)10月下旬から翌大正9年(1920)上半期にかけては、第2波が襲来した時期にあたっており、勁一も犠牲者の一人とみてよいでしょう。

このスペイン風邪は、日本でも約39万人の死者を出す大惨事となり、竹田宮恒久王をはじめ作家の島村抱月、建築家の辰野金吾、女子教育家の大山捨松などが犠牲となっています。

竹田宮恒久王 (『皇室皇族聖鑑-大正篇』(東洋文化協会編、昭和12年(1937))Wikipediaより20210907ダウンロード)の画像。
【スペイン風邪の犠牲となった竹田宮恒久王 (『皇室皇族聖鑑-大正篇』(東洋文化協会編、昭和12年(1937))Wikipediaより)】

ここまで子爵小笠原長育の跡を継いだ勁一についてみてきました。

前途を期待されつつも、スペイン風邪のパンデミックによる突然の死を迎えたのです。

次回は、急遽勁一の跡を継いだ牧四郎についてみてみましょう。

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