小笠原子爵家の終焉【勝山藩小笠原家編(福井県)㊵】

前回は、牧四郎の急逝により、幼子たちを抱えた妻の富喜は、実家の土井子爵家にたよって家を守るところをみてきました。

今回は、小笠原子爵家の終焉をみてみましょう。

土井利章(『貴族院要覧 昭和21年12月増訂-丙』貴族院事務局-編集・発行1947、国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【土井利章『貴族院要覧 昭和21年12月増訂 丙』貴族院事務局 編集・発行1947、国立国会図書館デジタルコレクション】

土井利章

土井利章は富喜の父・利剛の二男として明治39年1月28日生まれ、兄・利康の死に伴って大正12年11月20日に襲爵しました。

利章は学習院を出たあとアメリカに留学、昭和2年(1927)にマランクリン・デイン・アカデミーを卒業、次いでボストン市ニューイングランド・コンサバトリー・オフ・ミュジック器楽科を終了して帰国。

その後、昭和9年(1934)から自由学園男子部講師を務めるかたわら、日本レンズ工業株式会社専務取締役についています。

そして昭和21年(1946)5月から昭和22年(1947)5月まで貴族院子爵議員を務めて研究会に属し、貴族院の廃止を見届けました。

ちなみに、利章の妻・和子は新渡戸稲造養女で、エドワード・ガントレットの三女です。

エドワード・ガントレットはイギリスのウェールズ出身の音楽家、「ガントレット式」速記の考案者としても知られる人物で、自由学園でも教鞭をとっています。(『議会制度七十年史』『人事興信録』第13版・第14版)

利章は、その経歴からみてわかるように、欧米文化に通じた開明的人物で、富喜もその影響を強く受けたと思われます。

新渡戸稲造(「日本人の肖像」国立国会図書館)の画像。
【新渡戸稲造(「日本人の肖像」国立国会図書館) 新渡戸は国際連盟事務局次長として国際舞台で活躍した農政学者・教育者・思想家です。】

富喜の子育て

こうして夫・牧四郎が急逝すると、二人の幼児を抱えた富喜は、実家を頼りました。

この時の土井子爵家本邸は、牛込区袋町25番地で、ここに富喜親子も同居したようです。(『人事興信録 7版』)

しかし、昭和9年ころ利章は本邸を東京市麹町区上二番町1番地(『華族名簿 昭和9年5月20日調』華族会館、1934)さらに東京市麹町区一番町183へと移すのですが、富喜親子は袋町にとどまります。(『人事興信録 第14版』)

袋町の邸宅は家作にかえられましたので、その一軒に住んだのでしょう。

自由学園

ところで、富喜の二人の子供たちはどのように成長したのでしょうか、その足あとをたどってみましょう。

『華族家庭録』をみると、惠美は自由学園女学部二学年在学中、長定は学習院初等科第五学年在学中となっています。

その後、『人事興信録』第13版と14版によると、兄弟はともに自由学園へと通いました。

自由学園は羽仁もと子・吉一夫妻によって大正10年(1921)東京府北豊島郡高田町雑司ヶ谷に開設された学校です。

自由学園はキリスト教を土台とした教育を行う学校で、子ども自身の中から自ら学ぶ能力を引き出すという「新教育」を実践していました。

卒業生には、音楽家の坂本龍一や映画監督の羽仁進、オノ・ヨーコなどの多彩な人材を輩出していることでも有名です。

自由学園明日館(撮影者:Jmho、Wikipediaより20211014ダウンロード)の画像。
【自由学園明日館(撮影者:Jmho、Wikipediaより)】

小笠原子爵家の終焉

富貴が子供たちを自由学園に通わせたのは、弟の土井利章子爵が自由学園で講師を務めていた影響とみてよいでしょう。

ようやく兄弟が自由学園を卒業するころの昭和20年(1945)に終戦を迎え、昭和23年(1948)に華族制が廃止されたのでした。

こうしてみごとに子供たちを女手一つで育て上げた富喜ですが、『平成新修旧華族家系大系』によると、昭和4年(1929)に小笠原子爵家から離籍、その後は再婚して自らの幸福を追い求めたようです。

ここまで越前国勝山藩小笠原子爵家の歴史をみてきました。

次回は、小笠原家が去ったあとの勝山で、大切に受け継がれてきた民俗行事「走りやんこ」を通じてみてみましょう。

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