復興小学校の旧校舎(柳北小学校その4)

前回前々回の学校概要でみましたが、明治9年(1876)に柳北女学校として開設されてはじまった柳北小学校では、生徒数増加に伴って増改築を繰り返したのち、大正2年(1913)に木造三階建校舎を建設します。

しかし、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災で校舎は焼失し、震災復興で鉄筋コンクリート三階建校舎が作られました。

一部改築されたものの、この校舎は現在もほぼそのままの形で使われています。

そこで今回は、この「復興小学校」の旧柳北小学校校舎をみてみましょう。

復興校舎

まず、現存校舎のもととなった関東大震災からの復興で建てられた鉄筋コンクリート造3階建校舎をみていきます。

柳北小学校(『東京市教育施設復興図集』東京市編(勝田書店、昭和7年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【柳北小学校『東京市教育施設復興図集』東京市編(勝田書店、昭和7年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

竣工時の名称は東京市柳北尋常小学校、所在地は浅草区向柳原二丁目一番地で、復興小学校としては地域で最大級の32学級の規模を誇っていました。

つぎに建築の概要をみてみると、大正14年(1925)11月15日起工、大正15年(1926)11月10日竣工。

校地1,326.900坪、校舎延面積1,590.700坪、その内訳は、1階が643.220坪、2階と3階がそれぞれ472.740坪。

運動場は屋外430.000坪、屋上447.000坪、屋内140.670坪。

工事は本工事を藤本清次郎が請け負っています。(以上『東京市教育施設復興図集』による)

柳北小学校配置図(『東京市教育施設復興図集』東京市編(勝田書店、昭和7年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【柳北小学校配置図『東京市教育施設復興図集』東京市編(勝田書店、昭和7年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

校舎の概要

校舎の概要をみると、普通教室32室(594.920坪)のほか、特別教室を手工室・理科室・唱歌室・裁縫室の4室と準備室、標本室2室、屋内体操場1室 (126.600坪)と、全教室にスチーム暖房を装備。

建設費は東京市費負担分470,434.000円、浅草区費負担分16,672.950円で、計   487,106.950円。

建設費の内訳は、校舎建設費397,451.200円、門塀及運動場9,341.300円、暖房設備 31,071.600円などとなっています。(以上『東京市教育施設復興図集』による)

昭和50年撮影柳北小学校付近空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT7415‐C27B-16〔部分〕) の画像。
【昭和50年撮影柳北小学校付近空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT7415‐C27B-16〔部分〕)  まだ建設時に近い状態で使われている校舎】

校舎の配置

この復興小学校をもっとくわしく見てみましょう。

学校の北側は柳北公園に接して建てられていて、関東大震災の教訓から災害時に備えた構造となっています。

この校舎北側となる公園に接して正面玄関と第一昇降口が設けられて、少しだけ口の開いた「ロ」の字配置を採用していました。

南側には鉄骨平屋建ての講堂兼屋内体操場を配置し、その西側に当たる校地の南西部に第二昇降口が設けられるとともに、北、西、南に避難用通路が取られています。

さらに、講堂兼屋内体育館のギャラリーと東校舎は渡り廊下で連絡していました。

校舎のデザイン

外観のデザインは、壁柱を屋上にまでのばすことで垂直性を強調しつつ、柱には控壁をつけて単調にならないよう配慮がみられます。

これを屋上の手すり(パラペット)に刻んだ強い三本の水平ラインによって全体の印象を引き締める効果をねらっているのでしょう。

柱や梁の構造部材をそのまま見せるのではなく、凹凸の変化をつけることで意匠としているのです。

また、二か所の昇降口の入り口には、刻みの装飾を施した控柱が、ゆるくカーブを描く庇を支えて、学童を温かく迎え入れるデザインとなっています。(『台東区の復興小学校』)

全体的に、過度な装飾をおこなわずにシンプルなデザインとすることで建築費を抑えつつも、限られた予算内で学び舎にふさわしいスッキリとしながらも印象的な外観となるよう工夫されているといってよいでしょう。

旧柳北小学校通用口
【旧柳北小学校通用口 おそらく校舎建設時から変わっていない施設の一つ】

校舎内の構造

一階玄関を入ると、第一昇降口の右手に受付、宿直室、応接室、職員室、西棟にかけて6教室があり、南端に第二昇降口と屋内体操場兼講堂が並んでいました。

玄関からは土足のまま校庭に出ることができ、正面には階段室と校庭の両側から入れる便所が設けられ、左手が汽缶室、湯沸室、小使室となっています。

まっすぐ廊下に上がると、応接室、教室2室、その奥が手工室となっていました。

校庭には職員室の前に号令台があり、その周囲には円形の水呑所が三か所設けられていました。(『台東区の復興小学校』)

校舎の改築と現状

平成3年(1992)に屋内体操場と校舎西棟を取り壊して、体育館を新築したことで、校舎は南に開いた「コ」の字型配置となりました。

北棟と東棟校舎は建築当時に近い形で残されるとともに、北側に隣接する柳北公園からの昇降口へのアプローチは今もメイン玄関として生かされています。

平成29年撮影柳北小学校付近空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT20176‐C10-21〔部分〕) の画像。
【平成29年撮影柳北小学校付近空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT20176‐C10-21〔部分〕)   南にあった室内運動場兼講堂が取り壊されて工程が広がるとともに、改築された西棟上面にはプールが設けられています。】

柳北小学校が平成13年(2001)に育英小学校と統合して廃校となってからは、校舎は暫定利用でフランス人学校に貸し出されていました。

フランス人学校が移転した後は、仮園舎や仮校舎、仮庁舎など、区内施設の新築・改築時の仮施設として利用されたり、民間のこども施設として利用されたりしています。

また、体育館も一部を民間学童クラブとして利用するほかは、柳北スポーツプラザとして区民に解放して、地域住民の交流の場にもなっています。

柳北おどり開催中の旧柳北小学校校舎の画像。
【柳北おどり開催中の旧柳北小学校校舎(2019年8月)】

東京各地で復興小学校の廃校後の利用方法を各区が模索しているなか、小学校時代と同じようにこどもと地域の施設としていることは、一つの指標といえるでしょう。(『図面で見る復興小学校』)

(グーグルマップは、旧柳北小学校の北隣に当たる柳北公園を示しています。)

今回は、今も大切に守られている復興小学校の旧柳北小学校校舎をみてきました。

次回は、この柳北小学校の歩みをみていくことにしましょう。

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