悪名高い三年奉公制導入【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㉛】

前回みたように、五島では、夫銀を徴収するために他藩で類をみない人別把握体制が確立しました。

藩収入確保のために農漁民を犠牲にした領国経済体制が出来上がったのです。

それでも、藩が負った莫大な借金が返せるあては全くありません。

今回は、五島の農漁村は疲弊して人がいなくなってしまいかねない危機の中、五島藩が導入した稀代の悪政「三年奉公制」についてみてみましょう。

五島盛道(もりみち・1711~1780)

享保13年(1728)に父盛佳の隠居により、18歳で襲封した盛道の時代には、さらに農漁民からの収奪が徹底的に強化されます。

延享4年(1747)には御用銀不足のために、またまた地元商人たちに献銀を求めました。

これに応じて、銀二貫匁を献銀した福江佐野屋には嵯峨島のムロアジ網代が与えられた結果、佐野屋は嵯峨島の一手浦主となって島の漁業権を掌握したのです。

おなじく有川村の江口家も献銀により夏のマグロ網代権を得るなど、漁民の網代、漁業権はほとんどが商業資本家のものとなっていきました。

こうして漁民が「日雇い化」して困窮が進んでいくことになったのはいうまでもありません。

またまた借金

さらにそこに宝暦6~7年(1756~57)の大凶作が追い打ちをかけます。

このときに藩は幕府から二千両を借りるのですが、その返済は藩ではなく農民が行うというとんでもない政策を行ったのでした。

こうして生活が行き詰った農漁民は、重すぎる年貢を納めるために、労働可能な家族を奉公に出して、その給金に頼らざる得なくなりました。

こうして、五島ではいっきに奉公人が増えて、「奉公人だらけ」となってしまいます。

稀代の悪政「三年奉公制」

この事態に、生活救済策を制度化する必要に迫られた藩が打ち出したのが宝暦11年(1761)に出された「三年奉公制」です。

当初は二度にわたって離婚した女性を藩士の家に奉公させるという制度でした。

しかも奉公の3年間に不調法があって暇を出されたものは生涯結婚できないとする、現在からみると明らかに人権問題になる内容を含む掟だったのです。

2年後にはこの制度を改めて、農民・町人・漁民の娘は、長女を除き15歳になると上級家臣や有力町民の家で3年間奉公を命じられる内容となります。

改正されても奉公期間中に万一不調法があったら一生結婚できないという掟は残されましたので、奉公に出された娘たちは抱主、つまり奉公先の主人に奴隷的ともいえる絶対的服従を強いられたのです。

下女の心得(『日本女礼式大全 下巻』坪谷水哉(博文館、明治30年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【下女の心得 『日本女礼式大全 下巻』坪谷水哉(博文館、明治30年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

繰り返される悲劇

こうして娘たちは、無給での過酷な労働を強いられるのはもちろん、抱主の愛妾とされるケースも多く、私生児を生む悲劇もあとを絶たなかったといいます。

「三年奉公制」導入のねらい

ではなぜ五島藩はこのような「人身売買政策」(『藩史大事典』)をとったのでしょうか?

それは、制度化することで、奉公に出された娘たちが得るわずかな給金を実家に送付させて農漁民の収入を増やすことが最大の目的だったといわれています。

藩の収入不足を、奉公に出された娘たちのわずかばかりの給金で埋め合わせしようという政策に、なんとも悲しい気分になるのは私だけでしょうか。

あるいは商人たちからの献銀を促したり、長年続く家臣たちからの上知分への補填として行われたのでは、との疑いもぬぐえません。

シワ寄せはすべて領民へ

まさに「三年奉公制」は他藩にも類をみない悪政で、農漁民たちをさらに犠牲にすることで藩財政を一時的にでも改善させようと目論んだ政策だったのです。

そして、この極悪制度は明治に至るまでおよそ100年にわたって残されて、領民を苦しめ続けることになりました。

今回は、五島藩が取った悪名高い「三年奉公制」についてみてきました。

五島藩の農漁村にたいする収奪も極まった感じですが、それでも領民たちは耐え忍んで暮らしていきます。

どうして領民たちは藩の激しい収奪に耐えることができたのでしょうか。

次回は、その理由の一つ、隠れキリシタンについてみていきましょう。

《今回の記事は、『物語藩史』『日本地名大辞典』『三百藩藩主人名事典』に依拠して執筆しています。》

2 件のコメント

  • 家臣の奉禄半分借り上げしたので
    家臣達は奉公してる女中に賃金を
    支払えなくなったのが原因でしょうね。
    家臣の不平不満解消するには、今まで通り女中を使える様にする
    事から始めたと思われます。
    負担しなくとも良いのですから
    家臣の立場からは素晴らしい制度と為ったのは言うまでもありません。
    島で耕地面積も限られ自慢の鯨漁も富江に取られ小値賀島は松浦氏の領地として献上してますからね。城を築城するにしても同時期許可された松前城は五年で完成してるのに、五島はその三倍かかってやっとの完成。
    幕府からも築城資金として三千両借りてますが、これも踏み倒してます。
    幕府から派遣されてた築城目附衆は西幕の外れ(五島)で毎日江戸に帰りたいと思ってたでしょうね。

    • ターボ猫様
      ご連絡ありがとうございます。
      たしかに、家臣も俸禄が半減しているので、苦しかったのですね。
      しかし、上級家臣はともかく、大商人にも認めていたがなんともすさまじいように思います。
      俸禄半分以下となった藩をいくつか見てきましたが、五島藩のような対策をとった藩には出会っていません。
      私が何より不思議なのは、これほど藩士の生活が苦しいにもかかわらず、致仕するものがほとんどいないことです。
      上杉家や毛利家といった名門にみられがちな現象ですが、やはり五島家のご家中も、中世以来続く独自の矜持があったのですね。

      話は少しそれますが、今回執筆したのは、私の子どもの希望と、じつはもう一つの理由があります。
      昔、長崎市内出身の方が、「下五島の人たちは、驚くほど団結して一体感が半端ない、郷土愛がすごすぎる。」と聞かされたのが心に残っていたのです。
      三年奉公制にみられる、あまりにも過酷な領民支配のあと、盛成公あたりから意識の変化が見られ、「五島愛」的なものが培われてきたのを感じました。
      今回は、本当にいろいろと勉強できたことをとても感謝しております。
      今後ともぜひご意見ご感想などお聞かせくださるとうれしいです。

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