新宮水野家越中島中屋敷【紀伊国新宮水野家(和歌山県)63】

前回は新宮水野家越中島中屋敷をめざして大横川まで歩いてきました。

そこで今回では、藩邸跡のなかを歩いてみましょう。

新宮水野家越中島中屋敷正門跡

越中島橋から大島川遊歩道を100mほど歩いたところにある川が屈曲する辺りから、対岸をみてください。

江戸切絵図をみると、このあたりに無名の橋が架けられており、これを渡ると新宮水野家越中島中屋敷正門前に出るように描かれています。

新宮水野家深川越中島下屋敷(「本所深川會圖」〔部分〕戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永5年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【新宮水野家深川越中島下屋敷「本所深川會圖」〔部分〕戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永5年)国立国会図書館デジタルコレクション 黒丸付近が正門の場所を示しています。 】

川向うをみると、ヤマタネの巨大な倉庫が並ぶうちの右から二つ目付近が正門にあたるところです。

また、切絵図と現状を見比べると、古い倉庫が並ぶ東端付近からヤマタネの東端の倉庫辺りまでが新宮水野家越中島中屋敷の範囲にあたっています。

このまま遊歩道を戻り、越中島橋を渡って川の南岸遊歩道を歩いてみましたが、屋敷跡を想わせる遺構などは見当たりませんでした。

新宮水野家越中島中屋敷跡を歩く

越中島橋から南に歩くと、すぐに清澄通りに出てきました。

今度は清澄通りの西側を、南の月島方面に歩きます。

100mほど進んだところで、曲がってから最初の信号に出てきました。

この信号付近が藩邸の北東隅に当たりますので、交差点を西に曲がって細道に入ってみましょう。

まもなく右手に深川スポーツセンターがみえてきましたが、この西半分が藩邸の敷地でした。

このまま道なりに進みましょう。

深川スポーツセンターの画像。
【深川スポーツセンター】

庭園跡

左手のルネ門前仲町駐車場付近までが藩邸敷地で、明治9年(1876)の「明治東京全図」によると、このあたりに海水を引き込んだ大きな池が築かれていたようです。

池の右側には島、左には入り江が築かれていることから、この池が貯木用ではなく庭園の一部であるとみて間違いないでしょう。

この池から推察すると、藩邸内に海水を引き入れた回遊式庭園があったとみられます。

後に見るように、水野忠央がここに藩邸を移したのは洋式練兵を行う場所を設けるためでしたので、あえて庭園を造るとは考えにくいのではないでしょうか。(第65回「越中島練兵場」参照)

そうすると、もともとここに屋敷を構えていた大垣藩戸田家が下屋敷に庭園を築いたとみられます。

この付近は江戸を代表する景勝地の一つでしたから、庭園を築くのは極めて自然なことなのです。

越中島付近(「明治東京全図」〔部分〕明治9年、国立公文書館デジタルアーカイブ )の画像。
【越中島付近「明治東京全図」〔部分〕明治9年、国立公文書館デジタルアーカイブ  越中島の中に薄い青色でするされたのが水路です。画面中央左には、水路から水を引く池が描かれ、中には島が設けられているのがわかります。】

堀割

マンションに駐車場を越えると隣にあった松平下総守下屋敷跡に入ります。

また、このあたりに大垣藩戸田家下屋敷と高田藩榊原家下屋敷を隔てる堀割がありました。

明治9年(1876)「明治東京全図」には、この堀割がうすく記されており、この頃まで残っていたのでしょう。

しかし、現在この付近を見回しても、藩邸に関係するような古い遺構は見当たりません。

新宮水野家越中島中屋敷庭園跡付近の画像。
【新宮水野家越中島中屋敷庭園跡付近 残念ながらかつての庭園の遺稿は見られませんでした。】

越中島公園

さらに進むと、公園がみえてきましたが、この辺りが幕末までの海岸線で、これより先は近代に堤防を築くために埋め立てた場所です。

さらに進むと、木々が茂る小高い場所がみえてきました。

これが越中島公園で、晴海運河の堤防を公園化した施設です。

晴海運河堤防上まで出ると、目の前には川向うの佃島の高層マンション群、その右手、隅田川をはさんで霊巌島、右手奥には永代橋がみえています。

いっぽう、佃島から左をみると、越中島と佃島を結ぶ相生橋が望めました。

次回は、眺めの良い越中島公園で休憩しながら、越中島と新宮水野家越中島中屋敷についておさらいしましょう。

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