新宮水野家越中島中屋敷跡への道【紀伊国新宮水野家(和歌山県)62】

《最寄り駅:JR京葉線 越中島駅、東京メトロ東西線・都営大江戸線 門前仲町駅》

「武家屋敷名鑑」によると、安政2年(1855)新宮水野家は市ヶ谷浄瑠璃坂に上屋敷、深川越中島と市ヶ谷浄瑠璃坂に拝領中屋敷、市ヶ谷原町に拝領下屋敷、深川森下町に町並屋敷、神田富山町1丁目に町屋敷を持っていました。(『江戸幕藩大名家事典』)

そのうち今回は、越中島の中屋敷跡、現在の東京都江東区市越中島1丁目を歩いてみましょう。

なお、コースは東京メトロ東西線・都営大江戸線 門前仲町駅4番出口を出発し、JR京葉線越中島駅西口を終着とするコースで、全長約2㎞です。

越中島中屋敷コースマップの画像。
【水野家越中島中屋敷コースマップ】

《グーグルマップは水野家越中島中屋敷跡地に立つ深川スポーツセンターを示しています。》

新宮水野家越中島中屋敷跡への道

東京メトロ東西線・都営大江戸線 門前仲町駅4番出口を出ると、永代通りと清澄通りが交わる門前中町交差点に出てきます。

清澄通りを南の月島方面に進みましょう。

すると100mほどで大横川にかかる黒船橋に到着です。

黒船橋の北側橋詰めの東には、名高き門前仲町の火の見櫓を模した建物も設けられていて、かつての深川の情緒を伝えてくれます。

ここは黒船橋を渡らずに、大横川の北岸を西に歩いてみましょう。

100mほど進むと、大横川にかかる越中島橋に出てきました。

大横川

ここで、大横川についてみてみましょう。

この大横川は横川ともいい、万治2年(1659)徳山五兵衛重政、山崎四郎左衛門重政の本所奉行によって、本所深川埋立を行ったとき開鑿されました。

大横川は当時、墨田区向島1丁目と吾妻橋1丁目との隅田川分岐点から東流し、北十間川に接する点から南下、木場5丁目付近において西へ曲がり、隅田川と合流する延長7.11Km、幅20ないし35mからなる江東区最長の河川です。

なお、江戸城から見て横に流れるので大横川と名付けられたといわれています。(江東区土木部河川公園課設置の説明板より)

なお、大横川河口部を特に区別して大島川と呼ぶ方が多いようですので、以後は大島川とよぶことにします。

越中島橋

つぎに、越中島橋についても見ておきましょう。

この橋は、江東区門前中町1丁目と越中島1丁目を結び、大島川にかかっています。

橋がはじめて架けられた年代は不明ですが、『府内備考』越中島町の項に、「尤も橋掛け替修理等の儀は平助方にて取計い来り候に付理俗平助橋と唱え来り申候」とあります。

この平助橋を、越中島にわたる橋なので、越中島橋と改名したのでした。

現在の橋は、橋長27.7m、幅15.6m、設計荷重20tの、すっきりしたデザインが印象的な、昭和52年(1977)に架け替えた単径間鋼製ガーダー橋です。

ここで、越中島橋を渡らずに、通りを横切って大島川北岸の遊歩道をさらに西へ歩いてみましょう。

川の下流側に見えてきたのが、大島川(大横川)の最下流にある調練橋、その奥に見える大島川水門の向こうは隅田川です。

ちなみに、錬兵衛橋は、のちに見る幕府が幕末につくった調練場に関係して名付けられた橋です。(第65回「越中島調練場」参照)

大正15年(1926)に架設、長さ40.4m、幅8.0mの3径間綱桁の震災復興橋で、物流倉庫を運営するヤマタネの専用橋となっています。

ここまで新宮水野家越中島中屋敷をめざして大横川まで歩いてきました。

次回では、藩邸跡を歩いてみましょう。

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