木場の町【紀伊国新宮水野家(和歌山県)74】

前回は現在の木場公園の一角にあった新宮水野家深川三好町邸についてみてきました。

そこで最終回となる今回は、木場公園が建設される前にあった、長く独自の文化を培ってきた木場の町についてみてみましょう。

「木場之雪」(川瀬巴水(渡辺画版店、1934)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「木場之雪」川瀬巴水(渡辺画版店、1934)国立国会図書館デジタルコレクション 】

木場誕生

木場は元禄年間(1688~1704)に堀割や池が多く貯木に呈きていたこともあり、日本橋の材木問屋が木置き場として開発したことにはじまります。

ほどなく幕府の許可を得て、この地に材木市場が開かれたことが町の名称の起源となりました。

これには火事が頻発する江戸の市中から、火災対策のために隅田川をはさむこの地に置かれたとされています。

そして、材木市場周辺に材木商が集中し、貯木場、製材所が独特の街区を形成していたのです。

「下木場」欅一枚板看板の画像。
【「下木場」欅一枚板看板】
「木場町」(
『東京震災録.地図及写真帖」大正15年 東京市 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「木場町」『東京震災録.地図及写真帖」大正15年 東京市 国立国会図書館デジタルコレクション  関東大震災からいち早く復興した木場の町のようすです。】

木場の繁栄

木場は16町の材木商集住地の総称で、上・中・下木場に分かれています。

これらの中心となる木場町は幕府の特権材木問屋となった木場材木問屋が所有する町となって、「木場千軒」と繁栄をたたえられるまでになったのです。

これらの材木商は、江戸の火事の際には莫大な利益を得る一方で、思惑が外れると大損するといった投機的性格を帯びながらも莫大な富を木場一帯に蓄積していきます。

ここから、江戸時代には男性的な「いなせ」、女性的な「なさけ」さらには「きやん」と独特の美学が作り上げられていきました。

そして材木に関しても、「角乗り」「曲乗り」などの技術や「木遣り」などの芸能が発達しまし、独自の文化が栄えたのです。

これら木場独特の技術や芸能は現在にも伝えられて、東京都無形民俗文化財に指定されて保護されています。

「武蔵百景 深かわ木場」(小林清親(小林鉄次郎、明治17年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「武蔵百景 深かわ木場」小林清親(小林鉄次郎、明治17年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

木場の衰退

いっぽう、近代以降は過剰な地下水の汲み上げによる地盤沈下や道路の渋滞で機能が低下し、貯木場は東京湾岸の埋立て地の新木場へ移転、材木商や製材所の多くも新木場に移ったのです。

そしてかつての木場の町の跡地には、前にみたように平成4年(1992)都立木場公園が開設されました。

そして公園には木場公園大橋が建設されて、現在は地域の象徴的存在となっているのです。

崎川橋から見上げる木場公園大橋の画像。
【崎川橋から見上げる木場公園大橋】

町のどこからでも眺められる巨大で美しい木場公園大橋の主塔を見るたびに、私にはそれが繁栄を極め独自の文化を誇った木場の町の墓標に見えてくるのでした。

木場の変遷

ここで木場の変遷を空中写真でたどってきましょう。

木場付近、昭和11年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、B4-C5-78〔部分〕)の画像。
【昭和11年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、B4-C5-78〔部分〕)】
木場・三好町付近、昭和24年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-R587-21〔部分〕)の画像。
【昭和24年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-R587-21〔部分〕)】
木場、昭和38年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、MKT636-C9-25〔部分〕)の画像。
【昭和38年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、MKT636-C9-25〔部分〕)】
木場、昭和50年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT7415-C29A-50〔部分〕)の画像。
【昭和50年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT7415-C29A-50〔部分〕)】
木場、昭和54年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT794-C12B-20〔部分〕)の画像。
【昭和54年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT794-C12B-20〔部分〕)】
木場、昭和59年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT843-C12-37〔部分〕)の画像。
【昭和59年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT843-C12-37〔部分〕)】
木場、昭和63年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、KT874X-C11B-21〔部分〕)の画像。
【昭和63年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、KT874X-C11B-21〔部分〕)】
木場、平成4年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT921-C9B-12〔部分〕)の画像。
【平成4年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT921-C9B-12〔部分〕)】
木場、平成21年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT20092-C52-18〔部分〕)の画像。
【平成21年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT20092-C52-18〔部分〕)】
木場、平成29年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT20176-C11-26〔部分〕)の画像。
【平成29年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT20176-C11-26〔部分〕)】

それではそろそろ帰路につきましょう。

多目的広場から木場公園内を来た道を戻っていくと、1㎞ほどでスタート地点の東京メトロ東西線木場駅1番出口に到着です。

もし時間があれば、木場公園北側の東京都立現代美術館を訪れても楽しいでしょう。

ここでおすすめなのが、木場・深川の橋巡りです。

木場駅と木場公園周辺には、震災復興橋をはじめ、特色ある橋が集中して見られ、橋は木場の街の象徴といえる存在です。

ここでその一部をご紹介しますので、ぜひ歩いてみてください。

崎川橋 仙台堀川にかかる単径間鋼製トラス橋で、昭和4年(1929)架設の復興橋です。

崎川橋の画像。
【崎川橋】

大栄橋 大横川にかかる単径間鋼製トラス橋で、昭和4年(1929)架設の復興橋です。

大栄橋の画像。
【大栄橋】

福寿橋 大横川にかかる単径間鋼製トラス橋で、昭和4年(1929)架設の復興橋です。下流側の大栄橋とはほとんど同じ形式・デザインの双子橋となっています。

木場橋 大島川東支川の親水公園にかかる単径間鋼製トラス橋で、昭和3年(1928)架設の復興橋です。

木場橋の画像。
【木場橋】

鶴歩橋 平久川にかかる単径間鋼製トラス橋で、昭和3年(1928)架設の復興橋です。

築島橋 大島川東支川の親水公園にかかる単径間鋼製ガーダー橋で、昭和5年(1930)架設の復興橋です。

築島橋の画像。
【築島橋】

新田橋 大横川にかかる単径間鋼製ガーダー橋で、平成15年(2003)にかけ替えられた人道橋です。

この橋は、木場5丁目に住んでいた医師・新田清三郎が亡き妻を供養するためにつくった「橋供養」で名高い橋で、この橋は現在、富岡1丁目所在の重要文化財八幡橋ちかくに移設保存されています。

新田橋の画像。

弁天橋 大横川南支川にかかる単径間鋼製ガーダー橋で、昭和7年(1932)架設の復興橋です。かつて橋の南東側にあった洲崎遊郭の名残をとどめる橋でもあります。

弁天橋の画像。
【弁天橋】

もし歩き足りない方がおられたら、ちょっと木場の町を散策してみてはいかがでしょうか。

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献など:

「本所深川會圖」戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永5年)

「明治東京全図」明治9年(1876)

『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市区調査会、1912

『東京市及接続郡部地籍地図』東京市区調査会、1912

『深川区史』深川区史編纂会 編集・発行、1926

『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』石川悌二(新人物往来社、1977)

『角川日本地名大辞典 13東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)

「木場公園大橋施行報告」東義隆・柳田隼巳・牧野博文『川田技報』Vol.12、1993)

「吉岡彌生」『国史大辞典』国史大辞典編集委員会(吉川弘文館、1979~1997)

『江東区史』中巻、江東区 編集・発行、1997

『東京の橋 100選+100 』紅林章央2018 都政新報社

東京都および江東区設置の案内板

参考文献など:

『江戸・東京 歴史の散歩道1 中央区・台東区・墨田区・江東区』街と暮らし社 編集・発行1999

『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』鈴木理生(柏書房、2003)、

江東区Webサイト

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です