交番の名前に残る橋 問屋橋(とんやばし)編 ①

東日本橋の商用地の交差点に、ビルに埋もれるようにしてポツンと問屋橋交番が建っています。

昭和を感じさせる交番の建物と、そのあたりに昔ながらの街並みが帯状に延びる光景は、なんだか時間が止まったようで私の心に深く印象に残るものでした。

この光景が何だか気に入った私は、今でも機会があればこの場所を通るようにしています。

そしてある時、歩道の一部分だけが色が違うのに気づきました。

歩道は明るい茶色がかったオレンジ色のカラー舗装なのに、幅5mほどだけが焦げ茶色になっているのです。

これは何を意味するのでしょうか?

説明板など案内が無いので分かりにくいのですが、じつは、このカラー舗装、かつてこの場所に問屋橋(とんやばし)という橋が架かっていたことを示している!と思いました。

川や橋の跡になんか、中央区は興味がないのかと思っていただけに、渋い配慮にすっかり感心したのです。

しかしもこの頃、この橋が上路式の鋼トラス橋であるとする文献に出会ったのです!

この形式の橋は、山など高低差の大きい場所に造られるイメージがあるので、問屋橋のような低くて平らな場所にはおよそ似つかわしくないものだけに、珍しいものとの遭遇に興奮を隠せません。

「御茶の水橋幷ニコライ堂の遠景」(『東京景色写真版』江木商店、明治26年?国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「御茶の水橋幷ニコライ堂の遠景」『東京景色写真版』江木商店、明治26年?国立国会図書館デジタルコレクション】

写真は御茶ノ水橋(明治24年架設、原龍太設計)、錬鉄製で日本初の上路式トラス橋(道路がトラスの上面にある橋)、問屋橋もこんな感じなのでしょうか?

ちなみに、この御茶ノ水橋は残念ながら関東大震災で損傷して鋼ラーメン橋に架け替えられていますが、こちらも有名なのでご覧になった方もおられるかもしれません。

話しを問屋橋に戻して、なぜこのような平地に上路式のトラス橋?

話しを問屋橋に戻して、なぜこのような平地に上路式のトラス橋?

下路式トラス(トラスの下側に道がある構造の橋、写真は現存する同時期に建設された下路式トラス橋の平久橋と緑橋)じゃないの?と疑問がいっぱいで、私はとてもワクワクしてきました。

ところで、問屋橋ってどんな橋?

では、さっそく調べてみましょう。

問屋橋は、日本橋富沢町と、東日本橋三丁目と日本橋久松町のさかいを渡す、浜町川に架かる橋でした。

住所表示板に問屋橋跡を記した地図の画像。

浜町川ってどこにあったの?ということで、浜町川についてまず見てみましょう。

浜町川は、神田川と箱崎川(埋め立てにより消滅)をつないで流れていた総延長1.8㎞の人工河川で、現在は埋め立てによって消滅しています。

その歴史は、元和年間(1615~23)に箱崎川から現在の人形町2丁目まで開削されたことに始まります。

次の写真は、江戸で最も古い町絵図とされている「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永九年)の浜町川部分です。

「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永九年)『集約江戸絵図-上巻』古板江戸図集成刊行会(中央公論美術出版社、昭和39年)より【浜町川部分】の画像。
【「武州豊嶋郡江戸庄図」((寛永九年)『集約江戸絵図-上巻』古板江戸図集成刊行会(中央公論美術出版社、昭和39年)より筆写)】

この時、浜町川は途中で堀留となっているのが分かるでしょうか。

その後、元禄4年(1691)に龍閑川開削に伴って小伝馬町まで延長されて、龍閑川と合流するようになりました。

しかし安政4年(1883)に龍閑川が埋め立てられると、浜町川は再び小伝馬町で行き止まりとなってしまいます。

「明治東京全図」(明治9年、国立公文書館デジタルアーカイブ)の問屋橋部分の画像。
【「明治東京全図」(明治9年、国立公文書館デジタルアーカイブ)の問屋橋周辺部分】

前の写真は「明治東京全図」(明治9年)の問屋橋周辺部分で、千鳥橋栄橋の間には橋が架けられていません。

その後、東北本線秋葉原貨物駅(現在のJR秋葉原駅)開業に合わせて、明治16年(1883)に浜町川が神田川までの約300mが開削されています。

ここまで問屋橋が架かっていた浜町川についてみてきました。

次回ではいよいよ問屋橋がどのような橋だったのかを見ていきましょう。

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