三本の橋の教え 昌平橋(しょうへいばし)③

前回まで見たように学問と深い縁のある気高い橋・昌平橋。

現在は「三本の矢」の教えの如く三本で一本の橋という不思議な橋、今回はその誕生の謎を解き明かしましょう。

令和1年撮影の空中写真(国土地理院EWEBサイトより、CKT20191-C30-57)【部分】の画像。
【令和1年撮影の空中写真(国土地理院EWEBサイトより、CKT20191-C30-57)〔部分〕】
昌平橋の隙間の画像。

現在の橋は大正12年(1923)7月に開通しました。

これが現在の一番広い真中の鉄筋コンクリートアーチ橋部分、そして程なく上流側に市電専用の鉄筋コンクリートアーチ橋がレンガ貼りで架橋されました。

ですので、二つの橋の間には、少し隙間が空いているのです。

隙間から見ると、車道の側面が切り石、歩道がレンガと、見えにくい内側まで丁寧に仕上げているのがすこし面白い光景が見れるのに注目です。

そして完成した直後の同年9月に関東大震災がおこりました。

「昌平橋(データ)」『本邦道路橋輯覧』内務省土木試験場編(内務省土木試験場、大正14年) の画像。
【「昌平橋(データ)」『本邦道路橋輯覧』内務省土木試験場編(内務省土木試験場、大正14年) 】

幸い、橋は大きな被害を受けずに修理を行ってそのまま使われることとなりましたが、『帝都復興史・附横浜復興記念史 第1巻』などの文献には修理費用は42,000円と7,000円の二つが併記されています。

ところが、震災復興事業の費用一覧を見ても、他にそんな橋は見当たりません。

これはいったいどうゆうことかと想像すると、既存の橋は塗装を治す程度の補修だったのではないかと思います。

しかし、震災復興計画では この橋を通っていた市電路線が廃止されてたので、市電専用橋だった橋を歩道へと転用することにしたのです。

この橋の交通の多さを考えると、なかなか合理的な発想じゃないかと思います。

そうすると歩道が上流側のみでは不便ということで、昭和3年(1928)にもう一つ同じ橋を下流側にも造ったのです。

先ほど見た、予算が二つ併記されているうち金額の高い42,000円の方が、この歩道の建設費なのでしょう。

工事期間は昭和3年1月から同4年1月までのわずか1年でした。

「昌平橋」(復興調査協会編『帝都復興史・附横浜復興記念史 第1巻』昭和5年 興文堂書院 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「昌平橋」『帝都復興史・附横浜復興記念史 第1巻』復興調査協会編(興文堂書院、昭和5年) 国立国会図書館デジタルコレクション】

こうして、この橋は車道と歩道が分離した、合わせて三つの鉄筋コンクリートアーチ橋で構成される不思議な形になりました。

ただし中央の車道橋の側面は切石貼り、両側の歩道橋はレンガ張りと異なっています。

ここに、車道と歩道橋の区別を構造的に分離した大変珍しい橋が誕生したのです。

昌平橋から上流側を見た風景の画像。

橋が完成すると、橋の上から上流側に、中央総武線の橋梁越しに聖橋の美しい姿を見ることができます。

この光景が当時、都市的な絶景、近代的な都市景観として人気を博しました。

たしかに、新緑の頃などは見ごたえ十分な素晴らしい景観、是非一度ご覧ください!

昌平橋から下流側の万世橋を見た風景の画像。

一方の下流側は、万世橋が見えるのですが、当時は右手に万世橋駅が見えて、これまた人気でした。

万世橋駅はターミナル駅として壮麗な駅舎が造られて、駅前広場に設置された広瀬大佐像と共に観光客に人気のスポット。

万世橋駅(震災復興後)の画像。
【震災復興後の万世橋駅】

一方の下流側は、万世橋が見えるのですが、当時は右手に万世橋駅が見えて、これまた人気の観光名所でした。

万世橋駅はターミナル駅として壮麗な駅舎が造られて、駅前広場に設置された広瀬中佐像と共に観光客に人気のスポット、 このころから人が集う橋だったのですね。

その一方で、親柱や高欄などの装飾は統一されて、橋としての一体感を生み出す工夫がされています。

ここには当時の技術者たちの美意識や景観への配慮といった細やかな気遣いが感じられる、この橋の見どころです。

こうして三本で一本の昌平橋が誕生したのです。

第二次大戦で親柱などの橋の装飾が金属供出で失われたものの、橋は大きな被害を受けませんでした。

昌平橋の画像。

そしてこの橋を造った人たちの思いにこたえるかのように、昭和58年(1983)には歩道外面の老朽化したレンガが張り替えられるとともに、橋詰広場が整備されてこの橋が今の形となったころの景観へと復元されています。

「三本の矢の教え」をそのまま形にしたような昌平橋。

始めて父親になる時を目前にひかえ、不安な気持ちにさいなまれていた私の脳裏に突然言葉が浮かんできました。

一人一人が完全でなくても大丈夫、それぞれが役目を果たし、力を合わせて一つになればよいのです。

この橋はいうなれば私たちがこれから作る「家族」、それぞれが奥さんであり私であり、これから生まれる子供なのです。

きっとこの橋が一つの「家族」となれたように、私も「家族」の一員としてやっていけそうな気がしてきました。

そんなことを考えていると、この橋から、大丈夫、きっとなんとかなるよ、と声を掛けられたように思うのでした。

そして、翌朝予定より早く病院からの電話に叩き起こされた私は、病院に急行。

また妻に1日付き添って、ようやく娘が生まれたのでした。

娘が生まれたその日の帰りも、やっぱり昌平橋によって一服ました。

総武線と中央線の列車がひっきりなしに轟音を立てて通り過ぎていきます。

私は都会の喧騒の中でつましく寄り添って働くこの橋の姿に、なぜだかちょっと感動を覚えます。

そしてこの橋に父になったことを報告すると共に、きっとなんとかなるよね、などと語りかけたのでした。

この文章を作成するにあたって以下の文献を参考にしました。(順不同敬称略)

また、文中では敬称を省略させていただきました。

石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』1977新人物往来社、伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』1986 鹿島出版会、東京都建設局道路管理部道路橋梁課編『東京の橋と景観(改訂版)』1987東京都情報連絡室情報公開部都民情報課、紅林章央『東京の橋 100選+100』2018都政新報社

次回は白髭橋です。

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