歴史の舞台、竹橋を散歩 竹橋(たけばし)④

前回まで竹橋の歴史を見てきました。

そこで今回は、歴史の痕跡を探して竹橋の周辺を少し散歩してみましょう。

江戸城の地図の画像。

地下鉄東西線竹橋駅の1a出口から地上に出ると、竹橋の北東詰(地図にある現在地)に出てきます。

まずはそのまま、目の前の竹橋の内堀側を歩いてみましょう。

橋全体が緩やかな上り坂になっていて、橋の向こうまで続いています。

これが紀伊国坂で、通りの名前は代官町通り。

橋の中ほどは、江戸城内堀にかかる平川橋と、その向こうに大手町のビル群が対照的で美しい景観が見られる隠れた絶景ポイントです。

橋の南詰めには、かつての枡形の石垣が一部残っていて、かつての江戸城竹橋御門の雰囲気が少しですが味わえます。

江戸城北桔橋門の画像。
【江戸城北桔橋門】

まだまだ続く坂道を頑張って上っていくと、内堀の反対側にある高い石垣の上に、門と橋が見えてきます。

これが北桔橋門で、かつて江戸城内に水を送る水道が通っていた重要な門でした。

さらに坂を上ると、小さいながら清潔なトイレと ちょっとした休憩スペースが設けられています。

ここで一休みしていると、何だか永井荷風の『日和下駄』に出てきた「兵営に沿うた大きな土手の中腹」の大榎と「その木陰なる土手下の路傍」の井戸を思い出します。

荷風が描く車力や馬方が休む光景が、現在の一息入れる皇居ランナーに似ているように思えて、なんだかちょっとほほえましく思えてきます。

紀伊国坂は「車を曳くものには限りも知れぬ長い坂」、皇居ランナーたちも苦しそう。

心の中で、「頑張って!」と応援です。

江戸城乾門の画像。
【江戸城乾門】

さらに坂を上ると左手に巨大な城門が現れます。

これが名高き乾門で、現在も皇宮警察官たちが厳しく監視の目を光らせています。

それもそのはず、この門をくぐると宮内庁まで一直線ですし、そのすぐ後ろが皇居新宮殿と、ここは警備上の最重要拠点の一つなのです。

この乾門前から首都高速代官町料金所前の横断歩道を渡ると、目の前が北の丸公園です。

そのまま直進すると日本武道館に生けるのですが、ここは左折しましょう。

北白川宮能久親王の銅像の画像。
【北白川宮能久親王の銅像】

相変わらずのゆるやかな坂を上っていくと、公園内に巨大な銅像が見えてきました。

これが北白川宮能久親王の銅像です。

かつてプロシアに留学された経験を持つ親王で、明治時代中頃には近衛師団長を務めておられました。

その後、台湾出征時に出生先で病死されています。

この銅像は、近衛第一・第二連隊がこの地に兵営を設けていたころからあったものでした。

そのころの様子は、写真(「北白川宮親王像」『最新東京名所写真帖』小島又市、明治42年)で見ることができます。

この写真を見ると、親王像の後ろには日の丸を掲げた近衛歩兵連隊の建物が見えますが、現在は北の丸公園の森に囲まれた静かな一角となっていました。

「北白川宮親王像」(小島又市『最新東京名所写真帖』明治42年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「北白川宮親王像」(小島又市『最新東京名所写真帖』明治42年 国立国会図書館デジタルコレクション)】

この親王像は地図にもはっきり記されていて(伊藤正之助「携帯番地入東京区分図 附東京郡部地図」1909 新美社)、現在の場所がこの頃あった場所からあまり変わっていないように思いました。

参考までに、近衛師団廃止直後の昭和22年の空中写真を再掲します。

伊藤正之助「携帯番地入東京区分図 附東京郡部地図」(1909新美社 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【伊藤正之助「携帯番地入東京区分図 附東京郡部地図」(1909新美社 国立国会図書館デジタルコレクション)】
昭和22年空中写真(USA-M377-66)【部分】の画像。
【昭和22年空中写真(USA-M377-66)〔部分〕】

さらに進むと、銅像の向うに尖塔を持つレンガ造りの立派な建物が見えてきました。

これがかつての近衛師団司令部です。

近衛師団廃止後も建物は残って、2020年2月までは国立欣治美術館工芸館として使われていました。

同施設の金沢移転に伴って訪問時は閉館中。

これだけ立派な建物、これからどんな風に使われるか大いに注目したいところです。

旧近衛師団司令部で折り返して、今度は坂を下ってみましょう。

代官町通りも、こちら側には皇居ランナーが少ないので気を遣わずに気楽に歩けます。

東京学生会館の記念碑の画像。
【東京学生会館の記念碑】

北白川宮銅像前を通って北の丸公園入口を通過すると、道路わきに説明板が建てられています。

東京学生会館の記念碑です。かつて近衛第一・第二歩兵連隊の兵舎が現在の北の丸公園内に残っていました。

これを東京の大学に進学する学生たちの寮として使用していたとのことです。

これだけ素晴らし環境にある寮なら、ぜひ私も入りたかったのですが、残念ながら昭和41年に移転して閉鎖されています。

参考までに、量が廃止された昭和41年の空中写真((MKT666X-C6B-6)【部分】)を掲載します。

画面右下が竹橋、左下に旧近衛師団司令部があって、北の丸公園の北端には八角形の屋根が特徴的な日本武道館が見えるでしょうか。そのすぐ下にある上下対象の細長い建物が東京学生会館です。

昭和41年空中写真(MKT666X-C6B-6)【部分】の画像。
【昭和41年空中写真(MKT666X-C6B-6)〔部分〕 画面右上の日本橋川の上に、首都高速が建設中です。】

さらに坂を下っていくと、立派な歩道橋が見えてきます。

これが「みたけ橋陸橋」で、昭和天皇の在位30周年を記念して造られましたのですが、なんと 個人が建設費を寄付したそうです!

歩道橋に設置された銅板の「みたけばしの由来」には、「竹に縁いと深き一翁の篤志に因り この両地域を結ぶ歩道橋を建設」した旨と、この翁が読んだ和歌「菊さくら竹に生まるゝこの橋を 渡らむ人の幸をいのりて」が刻まれています。

「竹に縁いと深き一翁」って誰?と謎は深まりますが、それはまたの機会にして。

さらに坂道を下っていくと、国立公文書館と国立近代美術館の前に出てきます。

国立近代美術館については次回のお話をお楽しみに!

紀伊国坂の碑の画像。
【紀伊国坂、坂の上から竹橋方面を望む】

ここまで来ると、ようやく竹橋が見えてきます。

最後に、皇居ランナーたちも苦戦する長い坂、紀国坂について少し見てみましょう。

竹橋案内板に掲示されていた地形図の画像に注目してください。

赤丸部分が竹橋で、白く江戸城を取り囲んで二重丸になっているのが江戸城の内堀です。

竹橋案内板の地形図の画像。

江戸城を境に、東(図の右側)は青色で、日本橋川や隅田川が流れています。

この部分は川が運んできた土砂でできた沖積地、低くて平らな土地です。

ここに江戸の町が広がっていました。

一方、江戸城からは黄色い台地になっているのが分かります。

川が削った谷を利用して、内堀と外濠が造られていますが、この高まりは地図の左側まで続いています。

この高い部分はさらに東へと続いて、武蔵野を形成しています。

つまり、江戸城は武蔵野の縁に築かれた城で、竹橋付近の紀伊国坂の高低差は沖積地から武蔵野への変換点にあたっていました。

つまり、皇居ランナーたちはいつも、武蔵野へと駆け上がっているというわけです。

今回の散歩で、江戸城や近衛師団の史跡を堪能しつつ、竹橋が武蔵野から続く台地の縁にあることを自分の足で確かめることが出来ました。

私のゆっくり歩きで約40分、全部が坂道ですので、意外としっかりした散歩になりました。

じつは、竹橋は夜景も美しいのでちょっとおススメです。

皇居ランナーが夜も結構走っているので安心して見に行けます。

ここまで竹橋とその周辺の歴史を見てきました。

次回ではいよいよ、私と竹橋の出会いについてみてみましょう。

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