作家・長谷川時雨ゆかりの橋 緑橋(みどりばし)編 ①

「そこで、アンポンタンと親からなづけられていた、あたしというものが生れた日本橋通油町というのは、たった一町だけで、大門通りの角から緑橋の角までの一角、その大通りの両側が背中にした裏町の、片側ずつがその名を名告なのっていた。」【『旧聞日本橋』長谷川時雨、昭和10年(1935)青空文庫】

長谷川時雨イラストの画像。

緑橋はかつて浜町川を通油町(現・日本橋大伝馬町)と通塩町(現・日本橋横山町)を渡す橋でした。

冒頭の文章を書いた長谷川時雨(はせがわ しぐれ)は、明治12年(1879)10月1日に、この橋に程近い通油町一番地で生まれています。

彼女は代表作のひとつ『旧聞日本橋』をはじめとする作品で、通油町周辺の明治時代前半の様子を生き生きと描きました。

この中にはかつての江戸・東京にあった失われた風景と共に、さまざまな愛すべき江戸っ子たちが登場していて、私は大好きです。

この町をこよなく愛した長谷川時雨については別稿を用意していますので、こちらをご覧ください。

それでは、江戸時代の通油町の様子を見ていきたいと思います。

江戸時代、東北地方と水戸方面からの道が江戸に入るのが浅草橋で、これに房総方面から両国橋を渡ってきた道が合わさるところが両国広小路です。

さらにそこから江戸の中心・本町にまっすぐ伸びていたのが本町通りでした。

この途上にあるのが緑橋と通塩町、通油町、通旅籠町で、町の名に「通」をつけているのは本町通りという江戸を代表する大通りに面しているからでした。

その名残に、現在でも緑橋跡を通る道は、そのまま南西方向にまっすぐ進むと、本石町の日本銀行本店に通じています。

そして、この本町通りに直行するのが東から順に浜町川、大門(おおもん)通り、人形町通りでした。

「大門通」(『江戸名所図会』斎藤長秋編(博文館、1893)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。

この大門通「大門通」(『江戸名所図会』斎藤長秋編(博文館、1893)国立国会図書館デジタルコレクション)ですが、「大門通りは、廓の大門の通りなのだから大門(おおもん)とよんでください。芝にも大門があるがあれは大門(だいもん)である。」(『旧聞日本橋』)と長谷川時雨も言うように、この通りの呼び名は地元の人たちのこだわりポイントだったのです。

さて、この大門通りは問屋街となっており、名のある大店が並ぶ商業地区。

そしてここから一本西の人形町通りは芝居町とも呼ばれた堺町などがある大歓楽街でした。

大門通り・人形町通りと本町通りが交わる通油町と通旅籠町は大変な賑わいをみせ、江戸における商業の一大拠点となっていたのです。

『東京名所之内 通旅篭街大丸呉服店繁盛之図』(梅堂国政(具足屋福田熊治郎、明治年間)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【『東京名所之内 通旅篭街大丸呉服店繁盛之図』梅堂国政(具足屋福田熊治郎、明治年間)国立国会図書館デジタルコレクション】

とくに、本町通りと人形町通り交わる角には名の知れた大店の呉服店「大丸」江戸店があり、江戸を代表する光景として浮世絵にも描かれるとともに、長谷川時雨の作品にもよく登場しています。

この大丸呉服店江戸店については別稿を用意していますので、そちらをご覧ください。

このように大変賑やかだった通油町、その様子をもう少し詳しく見てみましょう。

まず町の名前ですが、「当初(照明用の)灯油を商う家が多かったことからの町名」(『新撰東京名所図会』)だと考えられています。

「武州豊嶋郡江戸〔庄〕図」((寛永9年(1632)頃)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「武州豊嶋郡江戸庄図」((寛永九年)国立国会図書館デジタルコレクション〔浜町川部分〕)】

実はこの町の名前は古く、最古の江戸町絵図「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永九年)にも「あふら丁」と記されています。

この絵図には浜町川も描かれていますが、「あふら丁」「しほ丁」手前で堀留となっているのが分かるでしょうか。

商業地であるこの町の表通りには多くの商店が軒を連ねていました。

そして、その多くが問屋業を営んでいたのです。

その業種を見てみると、武具、馬具、蝋燭、紅白粉、諸国銘茶、鉄釘銅物、呉服、小間物など、じつに多岐にわたっていました。

それは、長谷川時雨の描く明治のこの町にも、引き続いて実に様々な問屋があることが記されています。

その中でも特徴的なのが本屋と江戸暦問屋などの出版関係の店の存在です。

浄瑠璃本屋や版木屋、江戸暦や錦絵、仏書や義太夫本などを商う店があるだけでなく、浮世絵師や版木の彫師なども居住して江戸後期~幕末にはこの町を代表する一大産業となっています。

「絵草紙店(耕書堂)」(『東都遊』淺草庵市人著・葛飾北斎画、享和2年(1802)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【『東都遊』淺草庵市人著・葛飾北斎画、享和2年(1802)国立国会図書館デジタルコレクション】

そしてなにより、地本問屋蔦屋重三郎の「絵草紙店(耕書堂)」もこの町にあったので、ここに浮世絵師喜多川歌麿や戯作者十返舎一九が寄寓してたのです。

そのほか、浮世絵師西村重長、奥村政信、為永春水などがこの町に住んでいました。

明治時代はじめまでこの状況は続いたようで、長谷川時雨の作品にも歌川豊国(三代)や国輝がこの町に暮らしていたことが記されています。

蔦屋重三郎については別稿を用意していますので、こちらをぜひご覧ください。

今回は繁栄を極めた江戸時代の通油町についてみてきました。

次回はこの町の入り口、緑橋についてみていきたいと思います。

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