柳川藩下屋敷跡を歩く・前編【筑後国柳川藩立花家(福岡県)64】

《最寄り駅:東京メトロ日比谷線 入谷駅》

「武家屋敷名鑑」によると、安政2年(1855)柳川藩は下谷御徒町に上屋敷浅草鳥越に拝領中屋敷、浅草末に拝領下屋敷を持っていました。(『江戸幕藩大名家事典』)

そのうち今回は、浅草末の拝領下屋敷跡を歩いてみましょう。

また、コースは東京メトロ日比谷線入谷駅の1番出入口からスタートして、最後は同じ入谷駅の3番出入口へ帰ってくるコースで、全長約1㎞です。

柳川藩浅草末下屋敷コースマップの画像。
【柳川藩浅草末下屋敷コースマップ】

《グーグルマップは、太郎稲荷大明神を指しています。》

柳川藩浅草末下屋敷への道

東京メトロ日比谷線入谷駅の1番出入口から地上に出ると、目の前には東西方向を走る言問通りと南北方向に走る昭和通り国道4号線の交わる入谷交差点がみえてきました。

交差点の向こうには、朝顔市で知られる入谷鬼子母神(「鬼」本来、最初の払いのない字)がみえています。

言問通りから東方向を望む画像。
【言問通りから東方向を望む、東京スカイツリーがよく見えます。】

この言問通りを西方向へ進みましょう。

すると、正面に東京スカイツリーがくっきりとみえてきました。

およそ350mほど進んで到着したのが松が谷4丁目交差点で、この交差点を左折して北方向に進みましょう。

北に曲がると、三叉路になっていますが、ここは右側の細い道を進みます。

そしてすぐに小さな交差点に行き当たりますが、ここが柳川藩下屋敷の南西隅に当たる場所、ここから東に約300m、北に約200mが下屋敷の範囲でした。

屋敷跡南西隅近くの三叉路の画像。
【屋敷跡南西隅近くの三叉路】
下屋敷跡南端、東方向から見た画像。
【下屋敷跡南端、東方向から見た風景】

屋敷跡南端を歩く

それでは、この小さな交差点を右折して西方向に進みましょう。

今歩いている道が、ちょうど下屋敷の南端にあたるところですが、住宅とビルが混じる町はいかにも下町といった風情で、石垣などの江戸時代をしのばせる遺構は見当たりません。

150mほど歩くと、南北方向に走る少し広い道に出てきました。

これが一葉桜 光月通りで、北へ800mほど行ったところに明治の女流作家・樋口一葉に関する資料を展示する一葉記念館があることから命名された通りで、現在は交差点の少し北に、通りの名を記した立派な柱が建てられています。

一葉桜 光月通りの画像。
【一葉桜 光月通り】
樋口一葉(国立国会図書館 近代日本人の肖像より)の画像。
【樋口一葉(国立国会図書館 近代日本人の肖像より)】

堀跡

それでは、このまま一葉桜通りを横切って直進、東に進みましょう。

すると、道幅が急に広がったのにお気づきでしょうか。

じつは戦後しばらくまでは、先ほどの交差点付近で折れ曲がる、「く」字の部分だけが道幅が広くなっていました。

これは、かつて柳川藩下屋敷の大きな「堀」があった部分で、これを埋め立てたために、このあたりだけ周囲よりも道幅が広くなっていたようです。

これに、千住へと向かう市電路線が設置されたことで、下屋敷の南東と東部分の道幅が広げられました。

200mほど東に進んだところで、信号のある五差路に行き当たります。

下屋敷東端、南からの画像。
【下屋敷東端、南から望む風景】

ここが下屋敷の南東隅に当たる場所、ここで左折して北に進みましょう。

今歩いている道がちょうど下屋敷の東端にあたる道で、250mほど進むと南北に走る国際通りに合流します。

合流地点から150mほど北には、11月の酉の市で有名な鷲神社があり、その裏手には名高き新吉原の遊郭が広がっていました。

屋敷跡北端を歩く

それでは、国際通りとの合流点の少し手前にある交差点で左折して、今度は西へと進みましょう。

今曲がったところが下屋敷の北東隅で、現在は下屋敷の北端を歩いていることになります。

下屋敷北端、東から望む画像。
【下屋敷北端、東から望む風景】
下屋敷北端の道、西半部分の画像。
【下屋敷北端の道、西半部分】

200mほどで、再び一葉桜 光月通りに行き当たりますので、これを渡ってから左折し、通りの西側を南方向に歩きましょう。

一ブロック歩いたところで、東西に走る細道を右折して進むと、目の前に小さな祠がみえてきました。

これが、かつての柳川藩下屋敷の守り神だった太郎稲荷大明神です。

ここまで柳川藩浅草末下屋敷跡をぐるっと歩いてきました。

次回は、かつての屋敷の守り神・太郎稲荷神社(現在の太郎稲荷大明神)についてみてみましょう。

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