柳川藩中屋敷跡を歩く・前編【筑後国柳川藩立花家(福岡県)61】

《最寄り駅:都営大江戸線 新御徒町駅、都営浅草線 蔵前駅》

「武家屋敷名鑑」によると、安政2年(1855)柳川藩は下谷御徒町に上屋敷、浅草鳥越に拝領中屋敷、浅草末に拝領下屋敷を持っていました。(『江戸幕藩大名家事典』)

そのうち今回は、浅草鳥越の拝領中屋敷跡を歩いてみましょう。

なお、コースは都営浅草線 蔵前駅A4口を出発して、都営大江戸線 新御徒町駅A4口をゴールとするコースで、全長約1.2㎞です。

蔵前小学校(旧精華小学校)

都営浅草線の蔵前駅A4口を出ると、目の前をゆるい坂道が横切っています。

この坂道を左折して西に進みましょう。

逆「く」字状に曲がる道を200mほど進むと南北に走る国際通りの蔵前小学校交差点に到着します。

このまま国際通りを渡って、西方向へ直進すると、50mほどで真新しい小学校がみえてきました。

これが現在の台東区立蔵前小学校で、かつての精華小学校でした。

精華小学校は、明治7年(1874)に浅草区寿町7番町に創設した第五番中学区第八番小学戸田学校が前身です。

この学校は、学校令の発布とともに誕生した学校でした。

精華高等小学校(『浅草区誌 下巻』浅草区 編(文会堂書店、大正3年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【精華高等小学校『浅草区誌 下巻』浅草区 編(文会堂書店、大正3年)国立国会図書館デジタルコレクション】
東京市精華尋常小学校(『東京市教育施設復興図集』東京市 編(勝田書店、1932)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【東京市精華尋常小学校『東京市教育施設復興図集』東京市 編(勝田書店、1932)国立国会図書館デジタルコレクション 】
現在の蔵前小学校(2021年12月撮影)の画像。
【現在の蔵前小学校(2021年12月撮影)】

夏目漱石

長い歴史がある学校ですが、開校まもない明治7年(1974)に文豪夏目漱石が入学して彼の学校生活がスタートした場所としてご存じの方もおられるかもしれません。

漱石はその後、転校を繰り返して市ヶ谷学校、錦華小学校と進み、東京府立第一中学校、現在の日比谷高校に進学しています。

その後、現在の蔵前小学校校地に明治21年(1888)に移転。

さらに、平成15年(2003)に近隣の済美・小島・精華の三つの小学校が統合して蔵前小学校となりました。

現在は小学校前に精華小学校と夏目漱石の碑が建てられています。

「夏目漱石」(『漱石全集-第5巻』夏目漱石(漱石全集刊行会、1924)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「夏目漱石」『漱石全集 第5巻』夏目漱石(漱石全集刊行会、1924)国立国会図書館デジタルコレクション】
蔵前小学校前の碑の画像。
【蔵前小学校前に並ぶ碑。左から夏目漱石学び始めの碑、精華小学校碑、精華小学校校歌碑(作詞久保田万太郎)】

小島公園

蔵前小学校前の通りをそのまま西方向へ直進して400mほど進むと、柳川藩中屋敷跡に到着です。

このまま左衛門橋通りまで進んで信号のある交差点に出て、左衛門橋通りを右折し北方向へ。

最初の信号を左に折れて西に100mほど進むと、小島公園がみえてきました。

この公園で休憩しながら、柳川藩中屋敷についておさらいしましょう。

柳川藩鳥越中屋敷(「東都浅草絵図」井山能知(尾張屋清七、嘉永6年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【柳川藩鳥越中屋敷「東都浅草絵図」井山能知(尾張屋清七、嘉永6年)国立国会図書館デジタルコレクション  地図は右が北、上が西になっています。赤い部分が鳥越神社です。】

柳川藩中屋敷

『江戸幕藩大名家事典』「武家屋敷名鑑」によると、寛文4年(1664)以降、幕末に至るまで拝領中屋敷は鳥越の一角にあたるこの場所に置かれました。

屋敷の敷地は、安政2年(1819)で3,045坪2合とかなり小ぶりですが、これは上屋敷と下屋敷が近くにあることが関係しているのかもしれません。

この屋敷は各種史料からみて、おもに家臣たちの住居が置かれていたようですが、詳し形態はわかりませんでした。

安永元年(1772)2月、江戸大火で上屋敷とともに中屋敷も類焼し、8月1日幕府より災害復興のため恩貸金5,000両を十年の年賦で借り入れています。

ここまで柳川藩鳥越中屋敷についてみてきました。

次回は、この屋敷で謹慎していた西原一甫についてみてみましょう。

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