津山の洋学事始【維新の殿様・津山松平家編①】

コロナ禍で「学び」がなにかと話題になる昨今、ふと岡山県津山市出身の女性が語っていたことを思い出しました。

「津山のシンボルは、お城と津山高校なんですよ!」

彼女は照れ隠しに笑っていましたが、母校こそが町のシンボルと胸を張る姿が、ちょっぴりまぶしく見えたのです。

「舊津山城」(『苫田郡誌』苫田郡教育会、1927 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像
【「舊津山城」『苫田郡誌』苫田郡教育会、1927 国立国会図書館デジタルコレクション】

そう思うのは、どうやら彼女だけではないようです。

明治36年(1903)10月の、当時の皇太子嘉仁親王、のちの大正天皇が津山へ行啓された際は、津山駅から津山中学校に直行。

ここで地方高官などを拝謁、グランドで生徒たちの体操を見た後、紅葉の衆楽園を散策して津山駅に戻るという行程でした。

なお、嘉仁親王が山に登るのが困難なためか、代理を派遣して津山中学から鶴山城跡に上り視察させています。

大正15年(1926)5月に、当時の皇太子裕仁親王、のちの昭和天皇が津山へ行啓した際も見てみましょう。

津山では津山駅から鶴山館に向かい、ここで地域の代表などに拝謁、館内で津山の子供たちの作品や津山の物産、松平子爵家伝来の品々などを見ました。

その後、鶴山にのぼり城跡を視察、鶴山館に戻って自動車で津山中学校に移動して校内を視察し、校庭で地元婦人会などの万歳三唱を受けた後、津山駅に戻っています。(以上、『苫田郡誌』)

当時、行啓ではその地方の政治・産業・教育などの状態を視察するのが通例。

こうしてみると、津山の人たちがぜひとも見てほしいのが鶴山城跡と津山中学校、現在の津山高校というのは時代を超えて共通しているようです。

やっぱり「お城と津山高校」なんですね。

ところで、津山藩といえば洋学が盛んで、偉大な学者を数多く輩出したことで知られるところ。

ことに津山出身の箕作阮甫と宇田川興斎の二人は、ペリーが持参したアメリカ大統領の親書を翻訳したと聞くと、なるほどと思う方も多いのではないでしょうか。

この津山の洋学と津山高校には、何かつながりがあるのでしょうか?

そこで、まずは全国に名をはせた「津山の洋学」についてみましょう。

「津山の洋学」

津山藩は親藩とはいえ幕末で石高十万石、津山の町も明治元年時点で14,671人(『津山誌』)というこじんまりした規模でした。

「津山全景」(『苫田郡誌』苫田郡教育会編(苫田郡教育会、昭和2年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像
【「津山全景」(大正時代末頃)『苫田郡誌』苫田郡教育会編(苫田郡教育会、昭和2年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

この津山から、宇田川家の玄随、玄真、榛斎、榕庵、興斎、そして箕作家の阮甫、秋坪、津田真道といった優れた学者が次々と輩出されて、この町が医学をはじめとする洋学の一大拠点となったというから驚きです。

明治維新前後の入学者が350人を数えた(『藩史総覧』)ことからも、その人気ぶりが分かるのではないでしょうか。

津山藩では五代藩主康哉時代の明和2年(1765)に藩校として学問所が設けられました。

これは決して他藩に比べて早いという訳でもありませんし、規模や内容が傑出しているわけでもありません。

じつは学問の町・津山は、一人の涙ぐましい努力からはじまっているのです。

それでは、津山の洋学のはじまりを見ていきましょう。

宇田川玄随(うだがわ げんずい・1755~1797)

津山の洋学は宇田川玄随にはじまります。

五代藩主康哉の侍医だった宇田川玄随は、大槻玄沢・杉田玄白・桂川甫周らに蘭学を学び内科を専修しました。

ここでちょっと考えてみてください。

玄随は漢方医術を修めていますので、漢文を読解できたとしても、オランダ語は見たこともないはずです。

じつはその通りで、大杉玄沢たちのうわさを耳にして実際に彼らの話を聞き、彼らの医術の優位性を理解たうえで、藩主の許可を得て入門しました。

その後西洋医学をさらに極め、藩主の許しを得て『西説内科撰要』を翻訳出版しています。

『内科撰要 巻1』((宇田川玄真による重訂版)玉函涅斯垤我爾徳兒(ヨハンネス・デ・ゴルテル) 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【『内科撰要 巻1』(宇田川玄真による重訂版)玉函涅斯垤我爾徳兒(ヨハンネス・デ・ゴルテル) 国立国会図書館デジタルコレクション】

この本は当時のオランダにおける内科医学を総合的に紹介したもので、この翻訳出版によってはじめて西洋内科医学が体系的に日本に紹介されたという記念碑的業績なのです。

じつは玄随が紹介するまで、蘭方医といえば外科を指すくらい内科の知識が欠乏していました。

確かに、外科ですと図が添えられていることも多く、言語がわからない時は理解しやすいのは納得がいくところ。

ところが内科となると、ほとんどが文字のみ、しかも医学用語ばかりという難しさ、そんな状態で全貌を理解したうえに翻訳して紹介したのですから、確かにものすごい業績なのがわかります。

この『西説内科撰要』のほかにも、稲村三伯・西善三郎とともに13年もの歳月をかけて完成させた『ハルマ和解』は、日本で初めての蘭和辞書で、これも日本の蘭学振興に寄与する重要な業績といえるでしょう。

ここまでの玄随の歩んだ道のりを振り返ってみると、まだ蘭学や蘭方医が忌避されていた時代に、その優位性をみとめて、オランダ語を習得して玄白たちの医術をマスターし、新たに専門書を理解して・・と、気の遠くなるような道のりをたどったことになります。

こうして、宇田川阮随の涙ぐましい努力からはじまった津山の洋学ですが、忘れてはいけないのが五代藩主康哉の寛容さだと思います。

当時、幕府はまだ漢方医のみ、なのに自分を診察する医者が、一般にはまだ信任を得ていなかった蘭方医になる事を許すわけですから、かなり懐の広い肝の据わった人物だったのですね。

こうして玄随がまいた洋学の種、これを玄真が受け継ぐとともに守り伝えて、大きく花開くことになります。

次回では、津山の洋学が広く根を張っていき、ついには日本の近代化を支えるまでになる様子を見ていきましょう。

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