浅草 酉の市がやってきた! 酉の市の歴史 その2

前回見たように、葛西 花又村の鷲神社で年越しの祭りとして始まった酉の市、今とはだいぶ様子が違いました。

それでは、酉の市が浅草で開かれるようになったのは、どうしてなのでしょうか? 

そしてそれは、いつ頃のことなのでしょうか?

今回は、そんな疑問の答えを探してみましょう。

【浅草 酉の市】その1:浅草に酉の市が来るまでその2:浅草酉の市がやってきた! ・ その3:浅草 酉の市とは?その4:酉の市参拝記①その5:酉の市参拝記②その6:酉の市参拝記③その7:酉の市参拝記④

「名所江戸百景 浅草田甫 酉の町詣」(歌川広重、安政4年)の画像。
【「名所江戸百景 浅草田甫 酉の町詣」歌川広重、安政4年】

酉の市が浅草にやってきた

葛西 花又村の鷲神社で始まった酉の市が いよいよ浅草にやって来ます。

明和八年(1771)のころには、新吉原の隣、浅草田圃の鷲神社(東京都台東区千束3-18-7)酉の市が便利さもあってしだいに賑わうようになってきていました。

これは、浅草の地の利に加えて 祭りの期間は新吉原の裏門が解放されるといった理由もありました。

ですので、この日は新吉原の花魁や妓女たちが鷲神社を参詣できるようになった訳なので、見物を兼ねた参詣客が自然と集まったのです。

そしてなによりも大きかったのが、酉の市が開催される寺社が盛んに宣伝したことで、酉の市詣でが流行するようになりました。

このように、宣伝が効いて酉の市の人気は大いに高まり、浅草田圃以外にも千住勝尊寺、浅草鳥越神社、巣鴨宮下町、四谷須賀神社、新宿花園神社、深川八幡社境内、目黒大鳥神社、池袋雑司ヶ谷大鳥神社、品川天王社など、江戸の各地に広がっていったのです。

なかでも葛西を大酉、千住を中酉、浅草田圃を新酉と呼んで、参詣客が大いに集まるようになります。

扇子・団扇の松根屋さんの熊手の画像。
【扇子・団扇の松根屋さんの熊手。たくさんの鳥(丹頂鶴?)が飾られています。】

酉は鶏?それとも鷲?

これとは別に、葛西の大鷲神社は源義家伝説がおこりとされ、酉の市に近在の農民が鶏を奉納する習わしがありました。

これは、鶏を神の使いとした信仰にもとづいていると考えられています。

のちに、鷲神社に奉納されていた鶏が浅草寺境内に運ばれるようになりました【『東都歳時記』】。

浅草寺境内にたくさんの鶏が奉納される様子は人気を集めたようで、『江戸名所図会』(斎藤月岑 天保5-7年(1834~36))にも描かれています。

普段とは違う見慣れない風景が面白かったのかもしれません。

江戸時代の浅草寺を描いたものに少なからず鶏が描かれているのも、この行事によるのでしょう。

昇斎一景「東京三十六景 七 浅草酉の市」明治4年 の画像
【昇斎一景「東京三十六景 七 浅草酉の市」明治4年。長い行列の先に浅草寺が見えます。】

鷲神社と長国寺の関係は?

少し話はそれますが、酉の市に行ったときに、鷲神社だけでなく、隣の長国寺でも熊手を売っているのを不思議に思いませんでしたか?

これも酉の市の歴史を探ると、そのあたりの事情が見えてきます。

じつは浅草田圃にある鷲神社は、隣の長国寺が別当でした。

つまり、鷲神社と長国寺は一体となっていて、その管理を長国寺が執り行っていたわけです。

ところが、明治の廃仏毀釈(明治元年(1868)ころ)によって全国的に寺と神社がわけられることになって、鷲神社と長国寺は細道一本を隔てるだけの距離にありながら、繋がりを絶たれてしまいました。

多くの人で賑わう鷲神社の酉の市の画像
【鷲神社 酉の市は現在も多くの人で賑わいます。
写真提供:守山泰弘さん】

そんなわけで、現在も鷲神社だけでなく、かつて一体だった長国寺でも酉の市が行われているだけでなく、長国寺の方が元祖という人もいるのです。

今回は浅草に酉の市がやってきたころを見てきました。

次回では、浅草の酉の市が現代の形になっていく過程をたどってみたいと思います。

【浅草 酉の市】その1:浅草に酉の市が来るまでその2:浅草酉の市がやってきた! ・ その3:浅草 酉の市とは?その4:酉の市参拝記①その5:酉の市参拝記②その6:酉の市参拝記③その7:酉の市参拝記④

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