海外通商の夢【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編⑯】

前回みたように、朝鮮出兵から関ケ原と続いた戦争の時代はようやく終わりを告げました。

そこで今回は、五島玄雅がいだいた海外交易発展の夢に迫ってみましょう。

異国船警護役と朱印状

慶長8年(1603)五島玄雅は養嗣子盛利とともに伏見城で徳川家康に拝謁しました。

このとき、五島は異国船渡来のちであるからと異国船警備役に任ぜられて江戸や京都への軍役を免除されます。

さらに慶長9年(1604)閏8月には東埔寨(カンボジア)への通交渡海朱印状を受けたのをはじめ、翌慶長10年(1605)5月には西洋(サイヨウ)への通商渡海朱印状を受けることに成功しました。

いっぽう、慶長15年(1610)には唐船が五島経由で駿河にまで行って、家康から朱印状を得ています。(『三百藩藩主人名事典』)

朱印船(Wikipediaより20210830ダウンロード)の画像。
【朱印船(Wikipediaより)】

この朱印状による海外との通商は、朝鮮出兵や関ケ原出陣での膨大な戦費の支払いや、五島藩の財政運営を目論んでのことと考えられます。

つまり、五島玄雅は、海外との通商での利益を渇望していたのでしょう。

キリスト教弾圧へ転換

ところで、先代純玄がキリスト教を保護したので玄雅も保護政策を継承すると、五島での布教が盛んとなって肥前大村領から多くの宣教師がやってくるようになりました。(第9話「五島ルイスの時代」参照)

これもおそらくは、先代純玄からの政策を引き継いで家中の混乱を避けると同時に、南蛮貿易の活性化をねらってのことだったのかもしれません。

玄雅自身は反キリスト教の立場で、純玄時代のキリスト教保護策に強く反対していたとする言説と(以上『三百藩藩主人名事典』)、玄雅自身がキリシタンだったとする言説(『日本史9』『海の国の記憶』)があって、一見すると矛盾しているように思いませんか?

しかし、五島玄雅はあくまで現実的政策をとるところをみると、自身の信仰は領国経営とは切り離して考えていたのかもしれません。

さらに、まったく信仰心がなくても、南蛮貿易のためにキリスト教信者になることもいとわなかったのではないでしょうか。

家康に呼びつけられる

こうして玄雅は宣教師を五島に招き続けましたが、徳川家康に駿府に呼びつけられて、棄教しキリスト教弾圧へと転じます。(『海の国の記憶』)

このころは家康が日明貿易再開を模索していましたので、中国と長年交易してきた五島家を交易に役立てようと考えたのでしょう。

徳川家康画像(Wikipediaより2020.8.26ダウンロード)の画像。
【徳川家康画像(Wikipediaより) 家康は五島玄雅を呼びつけて、いったい何を言ったのでしょうか?】

キリスト教弾圧の背景

のちにみるように、玄雅が家康に呼びつけられた後の慶長17年(1612)には、幕府が直轄地で禁教令を発しているのです。

そして家康への拝謁の時に、幕府の意向を知った玄雅は、先んじてキリスト教弾圧へと転じたとみてよいでしょう。

この玄雅の政策転換は、キリスト教の禁教に向かう幕府からも高い評価を得たようです。

いっぽう、玄雅にしてみると、家康から朱印状を得たことで貿易ルートが確保できる見通しとなったことでキリスト教を保護する必要が低下していましたから、徳川家康からの信頼を勝ち取るためにもキリスト教弾圧へと舵を切らざるをえなかったのかもしれません。

こうして五島藩は、宣教師を追放し、十字架を切り倒し、教会を破壊したほか、キリシタン集落に僧侶を派遣するなど、キリスト教への迫害は徹底したものになりました。(『全大名家事典』『三百藩藩主人名事典』)

五島玄雅の死

こうして五島藩の藩政確立の道もまだ半ばの慶長17年(1612)3月8日、65歳で玄雅は福江で没しました。

ところで、玄雅が棄教してまで実現にかけた海外通商発展の夢はどうなったのでしょうか。

次回は玄雅の後を継いだ盛利の時代をみてみましょう。

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