熊野水軍の活躍【紀伊国新宮水野家(和歌山県)6】

前回は熊野地方を熊野別当が治めた時代から、堀内氏による熊野地方までをみてきました。

そこで今回は、豊臣政権のもとで大名となった堀内氏善の活躍をみてみましょう。

熊野水軍の活躍

紀州を平定した秀吉は、羽柴秀長の領国となった和泉と紀伊で船改めを行って、紀伊湊(和歌山市)に船を集めます。

これは、中世以来の造船技術や操船技術を保持してきた熊野水軍を掌握することを目指したもの。

秀長が総大将となった四国攻めでは、堀内氏善も水軍を率いて参陣し、目覚ましい活躍をしたのです。

その後も、熊野水軍を中核とする紀州水軍は、天正14年(1586)九州攻め、天正18年(1590)小田原攻めに参陣し、秀吉の天下統一に大きく貢献しました。

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【釜山地鎮の戦い(「釜山鎮殉節図、Wikipediaより)】

朝鮮出兵

朝鮮出兵の命を受けると、氏善は総勢574人を繰り出して船団を編成し、桑山氏と杉若氏の船団とともに、藤堂高虎の麾下となりました。

この紀州水軍は、文禄元年(1592)に秀吉から出陣の命を受けると、壱岐に駐屯して日本軍の名護屋・壱岐間の渡海の警護役を任じられたのです。

この年の3月、竹嶋の戦いでは、加藤左馬介嘉明と先陣を争って、太刀一振りと感状を与えられています。

そして、第二軍を朝鮮に送り出した4月からは、朝鮮水軍の攻撃に対処するため、朝鮮の港へと派遣されて、直接戦闘に参加することとなったのです。

玉浦海戦

5月7日、巨済島玉浦に停泊していた藤堂高虎率いる日本水軍の支隊は、朝鮮水軍主力の奇襲攻撃を受けます。

藤堂高虎(Wikipediaより20020211ダウンロード)の画像。
【藤堂高虎(Wikipediaより)】

これが世にいう玉浦海戦で、李舜臣率いる朝鮮水軍は、距離を置いて火砲や矢で攻撃する対倭寇用作戦のスタイルをとりました。

一方の高虎軍は、数的不利を無視して朝鮮水軍に接近戦を挑み、近接しての鉄砲攻撃や白兵戦をねらいます。

高虎の作戦は完全に裏目に出て、朝鮮水軍主力保有する船の大半を沈められる大打撃を受けて敗退し、紀伊水軍も大きな損害を被ったのです。

とはいえ、朝鮮水軍が追撃を恐れて早々に退却したことで、高虎軍は多くの軍船を失ったものの、兵員の損害は軽微でした。

巨済島城守備

さらに、7月の閉山島海戦でも、日本水軍は戦術の乱れもあって、李舜臣率いる朝鮮水軍に勝つことができませんでした。

この結果、秀吉は日本水軍に、直接戦うことを避けて、朝鮮水軍の番船を封じ込めて動きを止める作戦に転じたのです。

こうして藤堂高虎率いる「紀州国衆」、堀内・杉若・桑山らの諸隊あわせて2,700人余は巨済島城の守備に就くよう命じられました。

慶長の役

慶長の役がはじまると、紀州水軍は再び出陣を命じられました。

藤堂高虎が伊予に移封となったので、この時は紀州水軍が独立軍として参陣しています。

慶長の役では、漆川梁海戦(巨済島海戦)や鳴梁海戦、露梁海戦など、多くの海戦が行われましたが、このいずれにも紀州水軍は参加していません。

どうやら後方支援活動が主だったようで、目だった活躍の機会もなく、慶長3年(1598)に秀吉の死によって撤退しました。

九鬼義隆(Wikipediaより20020211ダウンロード)の画像。
【九鬼義隆(Wikipediaより)】

関ケ原

秀吉の死後、大老筆頭の徳川家康が天下への野望をあらわにすると、これを阻止しようとした石田三成らと対立が激化し、ついに慶長5年(1600)関ケ原の戦いが起こりました。

この時、堀内氏善は石田三成から牟婁8万石と引き換えに西軍に参陣します。

氏善は350余の軍勢を率いて先代鳥羽城主・九鬼嘉隆とともに伊勢国に侵攻、ところが、西軍敗北の報を聞くと、氏善は新宮に戻らざるを得ませんでした。

そこへ、東軍に属する和歌山(若山)城主・桑山一晴が攻め込むと、氏善は逐電してしまいます。

10月には主を失った堀内氏の居城は、東軍に属する桑山一晴に攻め落とされて、堀内氏は所領を失ったのです。

こうして秀吉のもとで熊野を統一した堀内氏は新宮を去りました。

次回は、関ケ原の合戦後に入国した浅野氏の時代をみてみましょう。

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