甚内神社(前編) 忍者と大盗賊の死闘

地域の隠れた魅力を紹介する鳥蔵柳浅。

今回ご紹介するのは、忍者と縁の深い甚内神社(じんないじんじゃ)〔東京都台東区浅草橋3‐11‐5〕です。

甚内神社本殿の画像。
【甚内神社の本殿。
いつもきれいに保たれていて、地元の人たちに大切にされているのがよく分かります。】

向崎甚内はどんな人?

私が外国の方を案内していると、思わぬ場所が人気になることがあります。

その代表がこの甚内神社です。

祭神は江戸時代初期の人物、向崎(高坂)甚内(?~慶長18年(1613))〔向坂、勾坂などの異名あり〕、下総国向崎を拠点とする盗賊の大頭目でした。

この甚内は、このころ吉原を差配した庄司甚内、古着市を仕切った鳶沢甚内と合わせて三甚内と並び称される江戸の有名人だったのです。

跋扈する風魔一党

話しは江戸ができたばかりの慶長年間のことです。

江戸の町で火付けや強盗、殺人といった凶悪事件を次々と起こす風魔一党に幕府は手を焼いていました。

「江戸名所絵図 十九、丸山 犬山道節」(豊国(伊勢屋忠介、嘉永5年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
「江戸名所絵図 十九、丸山 犬山道節」豊国(伊勢屋忠介、嘉永5年)国立国会図書館デジタルコレクション 印を結びまさに火遁の術を発動させようとしている犬山道節の姿です。『南総里見八犬伝』の一場面です。】

風魔一党とは、かつて小田原を拠点に関東一円に勢力を伸ばした戦国大名・北条氏の乱破たちで、風魔小太郎を頭目とする破壊工作のプロ集団です。

北条氏滅亡後は、火付け・盗賊・人殺しを厭わない「悪の忍者集団」となり幕府や江戸っ子たちを恐怖のどん底に陥れていました。

一説には、風魔一党が目指すのは幕府打倒、そのために破壊活動を行って社会不安をあおっていたとも言われています。

忍者相手では町方も太刀打ちできず、 そこで甚内が幕府から協力を求められたのです。

「☆鳥 石川五右衛門・尾上多見蔵」(歌川国津、大英博物館)の画像。
【「☆鳥 石川五右衛門・尾上多見蔵」歌川国津、大英博物館
石川五右衛門が大鷲を口寄せして飛行の術を行っているところです。】

甚内対風魔一党

詳しい記録は残っていませんが、甚内は情報収集力を生かして風魔の拠点を次々に発見しては通告する方法で町方取り締まりに協力していたようです。

こうして町方の情報収集力の不足を甚内が盗賊のネットワークを駆使することでカバーすることで、風魔に常に先んじることで その力を削いでいったとみられています。

そしてついに慶長8年(1603)に風魔小太郎が捕縛処刑されて、「悪の忍者集団」風魔一党を壊滅させることに成功します。

その後の甚内については、次回のお話しで。

夜の甚内神社。提灯に灯が入って美しいです。
【夜の甚内神社。きれいな境内、提灯に灯が入って何とも言えない風情があります。訪れる人もまれで、とても静かです。私が案内した外国の方も、夜の方が素敵だと言ってました。】

忍者ってなに?

今回は少し視点を変えてみましょう。

そもそも、忍者って実在したのでしょうか?

私の知人に甲賀忍者の末裔に当たる人物がいました。

彼が言うには「忍で名を成したものは二流。名が残らぬ者こそ真の忍というもの」だそうです。

この言を踏まえると、文献でわずかでも痕跡が見つけられたのなら忍者は実在したとみてよいでしょう。

忍者とは、戦国時代に大名たちが抱えた諜報や破壊活動などを専門とする者たちのことです。

活動内容からも忍者はいわば裏の存在ですから、なかなかその実像を知るのは難しいのはまちがいなさそうです。

「犬山道節」(豊国(平のや、江戸時代)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「犬山道節」豊国(平のや、江戸時代)国立国会図書館デジタルコレクション 火遁の術を発動させた道節】

風魔一党とは?

では風魔一党とはどのような人たちなのでしょうか?

先ほど見た忍者のうち、山賊・海賊行為や強盗などによって社会を混乱させる者たちを すっぱ(透波)あるいはらっぱ(乱波)と呼びました。

そのらっぱを代表するのが、小田原に本拠を置いた北条氏の配下であった風魔一党です。

ほかにも らっぱやすっぱについて文献で見てみると、『甲陽軍鑑』には武田晴信(信玄)が諜報活動に使った信州の七十人のすっぱが出てきますし、『見聞雑録』には高坂弾正が美濃・近江の透波二千人の中から選任した忍の名人「変化ノ六平」と早道の一番「竜馬ノ小六」が記録されています。

ほかにも、『太閤記』には豊臣秀吉が召し抱えた近江のすっぱ早道忍の名人「走りノ一平」はよく知られるところです。

そして数ある記録の中で異彩を放つのが、『北条五代記』にある北条氏直が扶持していた夜討ちを得意とする二百人のらっぱ集団・風魔一党の記事です。

というのも、集団の規模がずば抜けて大きいうえに、活動内容が破壊工作一辺倒と ほかの戦国大名が主に情報収集や伝達に使ったのと際立った違いが見て取れるからです。

歌川国芳「木曾六十九次之内 三 蕨 犬山道節」(1852、大英博物館)の画像。
【歌川国芳「木曾六十九次之内 三 蕨 犬山道節」1852、大英博物館
『南総里見八犬伝』の一場面です。自らを死んだと見せかけるために大きく火遁の術を発動させる犬山道節の姿です。躍動感あふれる画面に道節の並々ならぬ決意を感じ取ることができます。】

『北条五代記』によると、らっぱとは「盗人にて、又盗人にもあらず心かしこく、けなげにて横道なる者どもなり」と「横道」つまり非合法活動を専門に行うものと定義しています。

また同書は大名が抱える理由を「此乱波我国に有盗人をよく穿鑿し尋出して首を切、おのれは他国へ忍び入、山賊海賊夜討強盗して、物取事が上手なり、才智有て謀計調略をめぐらす事凡慮に及ばず」としていますので、他の大名が表立って言わないだけで北条家と同じような活動をしていた可能性をうかがわせます。

また、『武家名目抄』にもすっぱとらっぱこのとが詳しく記されていますが、その内容はおおむね『北条五代記』と同様のものとなっています。

『北条五代記』は北条の遺臣が江戸時代の初め(元和年間?)に戦国大名北条氏の事績をまとめたもので、事実とは考えにくい記事が見られるなど少し扱いが難しい文献です。

しかし、『武家名目抄』の内容と考え合わせると、すっぱに関しては かなり真実味を感じずにはおられません。

話しを風魔一党に戻しましょう。

『北条五代記』のほかにも風魔一党に関連する文献がいくつか見出せます。

例えば「風間」による破壊活動に従事したものの記録が残っていますし、風魔の本拠とされる風祭(小田原市風祭)を所領とした風間(風祭)氏も文献で散見されます。

ただし、講談などで風魔一党の本拠地とされる風間谷という地名はありません。

これらと風魔一党との関係は明確には分かりませんが、記録からは北条氏にあって破壊活動に従事した集団の存在が垣間見えます。

甚内神社にある神名碑の画像。
【甚内神社にある神名を記した碑です。甚内は死してその名を残しましたが、その話は後編で。】

前にみた甲賀忍者の末裔の言葉を思い出してください。

「忍で名を成したものは二流。名が残らぬ者こそ真の忍というもの」

この言を踏まえると、風魔一党の活動があまりにも激しかったので、一部記録に残ってしまったと見るのが妥当かと思います。

この風魔一党と渡り合った盗人の大頭目 向崎甚内もまた、忍者出身と言われています。

また、記録が甚内の主張しか残っていませんので、彼が自分の勢力を伸ばすために風魔一党の高名を利用したとする説もあります。

いずれにせよ、忍者がかかわるだけに謎の多い話なのは間違いありません。

次回中編では甚内のその後を、後編では江戸のダークヒーローたちを見てみましょう。

甚内神社の外観画像。
【甚内神社の外観。いつも掃除が行き届いた境内は小さいけれどもすばらしいです。】

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