田中吉政の時代【筑後国柳川藩(福岡県)18】

前回まで関ケ原で西軍につき、改易された立花家が柳川に復すまでをみてきました。

そこで今回は、関ケ原後に柳川へ入封した田中吉政についてみてみましょう。

田中吉政

田中吉政(たかな よしまさ・1548~1609)は、田中重政の子として近江国高島郡田中村に生まれ、初名長政、のち竹・久次・久兵衛と称しています。

そもそも田中氏は、伯耆守嵩弘の本貫が近江国高島郡田中村であったので、田中を苗字とする家柄でした。

田中吉政(Wikipediaより20211207ダウンロード)の画像。
【田中吉政(Wikipediaより)】

豊臣秀次に仕える

吉政は、はじめ宮部善祥坊継潤に従い因幡鳥取にいましたが、のち秀吉の命によって豊臣秀次に属して5,000石を知行しました。

秀次は秀吉の姉の子で、秀吉の甥にあたります。

天正12年(1584)小牧長久手の戦いでは家康に敗れて秀吉の戒めを受けました。

しかし翌天正13年(1585)紀伊、四国平定の功により近江国43万石を領して近江八幡に居城を置いています。

吉政が頭角を現したのはこの頃で、領内統治を担当するようになりました。

天正18年(1590)に秀次が尾張・伊勢100万石へ移封されると、秀次は清洲城に入り、宿老たちは東海道の要地に配されて豊臣政権の対東国最前線としての役割を担います。

吉政も10月20日に秀吉から三河岡崎城を与えられ、額田・賀茂郡の一部、5万7,400石を与えられました。

豊臣秀次(Wikipediaより20211207ダウンロード)の画像。
【豊臣秀次(Wikipediaより)】

秀次事件

天正19年(1591)秀吉の子鶴松が夭折すると、秀次は関白職を譲られて聚楽第に入ります。

このとき、領国に不在の秀次に変わって吉政がその領国支配を任されるようになりました。

ところが、文禄2年(1593)秀頼が生まれると事態は一変し、秀吉と秀次の不和が表面化します。

ついに文禄4年(1595)7月に秀次は謀反の罪で高野山に追放されて切腹、秀次の妻妾や子女30人余も三条河原でことごとく処刑されたのでした。

秀吉に仕える

いっぽう吉政は、秀次事件が起こって秀次が自害すると、今度は秀吉に仕えました。

おそらく秀吉も吉政の内政手腕を高く買っていたのでしょう。

文禄4年(1595)8月8日、三河西尾および尾張智多郡のうち3万石を預けられ、そののちには加増されて8万5,700石を領有しました。

慶長元年(1596)7月27日、三河国内で1万4,200石を加増され、都合10万石を領有し、三河西尾に居城をおいたのです。

そして、秀吉より朱印状を下付され、かつ諱を許されて吉政と称するようになりました。

柳川入封

関ケ原の戦いで吉政は東軍に属し、石田三成を生け捕る大戦功をあげます。

この論功により、三河岡崎西尾から筑後一国32万5,000石の城主として柳川城に移封され、ついに吉政は大大名となったのです。

慶長6年(1601)3月末ころに入国すると、さっそく支配体制の確立に務めます。

柳川城改築

入封した吉政は、まず手はじめに4月10日には三カ条の入国法度を発しました。

さらに吉政は、本拠地に選んだ柳川城の規模を拡張し、新たに城池を掘り、石塁を高くして五層の天守閣を建て、柳川城を壮麗かつ強固な城につくりかえたのです。

柳川城(Wikipediaより20211205ダウンロード)の画像。
【柳川城(Wikipediaより)】

そして吉政は筑後の領国支配にあたり、「八端城」と呼ばれる重要な城には一族・重臣を配置して、領国支配と防衛の拠点としたのです。

その他の城塁は口分田甚左衛門(知行500石)に破壊させて田畑に開墾しています。

また、久留米篠山城・上妻郡福島城も改築して、統治体制を整えたのです。

ここまで関ケ原の軍功により、柳川に入封した田中吉政をみてきました。

次回は内政のスペシャリスト・吉政がとった驚くべき施策をみてみましょう。

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