相撲誕生から相撲節成立まで 相撲の歴史①

大相撲 目次大相撲とは?[相撲の歴史]①相撲誕生と相撲節成立②鎌倉・室町・戦国時代の相撲③織田信長と相撲④大相撲の成立⑤近代の相撲⑥現在の相撲

「相撲」は〈すまひ〉とも呼び、角力・角觝とも書かれます。

月岡芳年「芳年武者旡類 野見宿祢 當麻蹴速」(1877) の画像。
【月岡芳年「芳年武者旡類 野見宿祢 當麻蹴速」1877】

裸の男が素手で力競べをする〈力くらべ〉の流れをくむ相撲は、日本で最も古くから行われてきた競技の1つです。

『日本書紀』垂仁天皇7年7月7日条には野見宿禰と当麻蹶速の「すまひ」の話がでてきます。

物語の背景に、各地の有力者から力に優れた人を集め献上するという一種の服属儀礼であるとともに、「遠来の強者が天皇に奉仕する」という物語を再現する儀礼と考えられています。

ここに、いろいろな格闘技を融合して相撲が誕生しました。

相撲が重視されことは、力士の埴輪が古墳から多く出土していることからもわかります。

また『日本書紀』には、皇極天皇元年(642)に百済使節を供応するために、健児を召して相撲をさせたとあります。

相撲の節の風景の画像。
【岡敬孝編『古今相撲大要』明治18年 攻玉社 国会図書館デジタルコレクション】

さらに国家が相撲を重視する流れが発展して、養老3年(793)には相撲司(すまいのつかさ)の前身となる抜出司(ぬきでのつかさ)を任命して制度が整えられます。

こうして、勅令によって諸国から〈相撲人〉が進貢されるようになって、平安時代に入った延喜12年(793)から相撲節(すまいのせち)として毎年恒例の宮中行事として定着しました。

相撲節は、射礼・騎射と合わせて〈三度節(みたびのせち)〉とされて、武人にとって相撲は欠かせない技術となりました。

初期の相撲節は7月7日を節日とし、貴族らが相撲を天皇の観覧に献ずるという形式をとっています。

歌川広重「本朝年歴圖絵四 蹶速 力競 落命」(1847~51 大英博物館)【部分】の画像。
【歌川広重「本朝年歴圖絵四 蹶速 力競 落命」1847~51 大英博物館【部分】】

しかし、相撲節は、やがて儀礼的意味が失われて、天皇・貴族が入り並び鑑賞する技芸催事として再編されます。

式日も国忌との競合を避けて7月下旬に移されました。

また、相撲節の後もその人をしばらく都に留めて皇族・貴族の私邸で相撲が催され、さらに京都近郊の寺社の祭礼に相撲節を模した催事が奉納されるようになります。

「(相撲を取る子供)」(鳥居春信、大英博物館)の画像。
【「(相撲を取る子供)」鳥居春信、大英博物館】

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この文章を作成するにあたって以下の文献を参考にしました。(順不同敬称略)

大島建彦・大森志郎ほか編『日本を知る事典』1971社会思想社、日本風俗史学会編『日本風俗史事典』1979弘文堂、西山松之助・郡司正勝ほか編『江戸学事典』1984弘文堂、福田アジオ・新谷尚紀ほか編『日本民俗大辞典』1999吉川弘文館、小木新造・陣内秀信ほか編『江戸東京学事典』1987三省堂、石川弘義・有末賢ほか編『大衆文化事典』1999弘文堂、木村茂光・安田常雄ほか編『日本生活史事典』2016吉川弘文館、神崎宣武・白幡洋三郎・井上章一編『日本文化事典』2016丸善出版

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