立花鑑寛登場【筑後国柳川藩立花家(福岡県)36】

前回は十代藩主鑑広の突然の死によって藩存続の危機を迎えるものの、奇策でみごとに乗り切るところをみてきました。

しかしその間にも農村の疲弊は進み、藩財政は悪化を続けていたのです。

そこで今回は、幕末維新をみごとに切り抜けた十二代藩主鑑寛についてみてみましょう。

十二代 鑑寛(あきとも・1829~1909)

鑑寛は、文政12年(1829)6月23日、一族の立花寿俶(ひさよし)の子、つまり鑑寿の孫として柳川に生まれました。

生母は立花通厚の娘で、はじめ立花主祝の養子となりましたが、弘化2年(1845)11月、貰い返しで鑑備の養嗣子となります。

翌弘化3年(1846)2月に江戸へ向けて柳川を出発、3月に江戸に到着、6月に家督を相続しました。

8月15日にはじめて江戸城に登城、12月27日に御三卿田安家三代・田安斉匡の息女・純子と婚姻します。

田安斉匡は十一代将軍家斉の異母弟で、その子は福井藩主となった松平慶永(春嶽)はじめ、尾張徳川家、田安家などの当主となっていますので、鑑寛はその義兄弟となったわけです。

「松平慶永」(『徳川慶喜公伝 二』渋沢栄一(竜門社、1918)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「松平慶永」『徳川慶喜公伝 二』渋沢栄一(竜門社、1918)国立国会図書館デジタルコレクション】

鑑寛は奥州に移封された分家の下手渡藩主立花種恭が旧領の三池に復封するのに尽力し、嘉永4年(1851)12月旧領三池5,000石の復封に成功します。

ペリー来航と海岸防衛

嘉永6年(1853)6月、ペリー率いる黒船4艘が相模国浦賀に来航した時、江戸深川沿岸警衛を任ぜられます。

7月にプチャーチン率いるロシア船4隻が長崎に来航すると、物頭以下を長崎に向かわせました。

さらに11月15日には、上総沿岸警衛にあるとともに、上総国内1万石余の幕府領の管理を命じられます。

海岸警衛には莫大な費用がかかるため、12月18日に幕府は柳川藩に金1万両を貸したのです。

さらに嘉永7(1854)年2月1日には幕命により立花壱岐親雄が藩兵を率いて大師河原平間寺に駐屯、9月17日には大坂天保山沖に異国船が碇泊したために、市田新田防禦のため出役を命じられました。

10月8日、ロシア船が退去したために、長崎に派遣していた兵が柳川に還りました。

プチャーチン来航を描いた瓦版(Wikipediaより20211211ダウンロード)の画像。
【プチャーチン来航を描いた瓦版(Wikipediaより)】

こうして、幕府からの信頼が厚かったこともあり、柳川藩は各地で海岸防衛を命じられましたので、危機的状況にあった藩財政はさらに悪化したのはいうまでもありません。

安政江戸地震

こうした中、安政2年(1855)10月2日に江戸を大地震が襲います。

江戸安政地震は江戸の東半で甚大な被害を出しましたが、柳川藩も下谷藩邸が倒壊する被害を出したのです。

地震からの藩邸再建途中の翌安政3年(1856)2月11日には火災で藩邸を焼失してしまいます。

これに対して幕府から柳川藩に再び1万両が貸与されたのです。

ここにいたってついに藩主鑑寛は藩政改革を決断し、立花壱岐を登用して安政の改革に着手するのですが、それは次回にみてみましょう。

安政大地震絵〔部分〕(安政頃 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【安政大地震絵〔部分〕安政頃 国立国会図書館デジタルコレクション】

安政4年(1857)11月には、幕府の外国人に対する処置が姑息なものになる傾向が強いことを憂いて、加賀・薩摩・仙台藩以下16藩と連署して幕府に建言しています。

さらに、安政5年(1858)6月21日には上総警衛を免ぜられて、新たに泉州堺海岸の警衛を命じられたため、上総から十時雪斎に藩兵を率いさせて警衛の任につけました。

嘉永7年(1854)からの大坂天保山警衛役も継続中でしたので、このとき柳川藩は大阪湾沿岸に多くの兵を派遣していたのです。

今回みたように、幕府の信任もあって、各地の警衛役を次々と命じられた柳川藩の財政状況は悪化の一途をたどることになります。

この事態に、ついに藩主鑑寛は藩政改革の号令を発しました。

そこで次回は、柳川藩の安政の改革についてみてみましょう。

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