節分とは? 節分の歴史①

「節分図」(『巣兆俳諧絵巻』建部巣兆、文化10年(1813))の画像。
【「節分図」『巣兆俳諧絵巻』建部巣兆、文化10年(1813)】

【節分】節分の歴史:①節分とは?②お水取りと追儺と陰陽道③お正月と節分がいっしょに来る④ニュータイプ節分の誕生

鬼の面と恵方巻の画像。
豆と鬼の面、恵方巻は現代の節分の必需品です。

「節分」と聞けば、2月3日の夜、鬼の面をかぶったお父さんにむかって子供たちが豆を投げて元気に「鬼は外、福は内!」と叫ぶ光景を思う方も多いのではないでしょうか。

家族団らんの象徴のようなこの行事、実は、その歴史は一筋縄ではいかないものでした。

「節分とは立春の前日、2月3日の夜に炒り豆をまいて悪鬼を追い払う日本伝統の行事です。」(あるお菓子のパッケージ文)と簡単に言うのも間違いではありません。

しかしなぜ、正月や悪疫の多い夏ではなく、2月なのでしょうか?

追い払う鬼は「桃太郎」で出てくる鬼なのでしょうか?

どうして炒り豆をまくのでしょうか?

こう考えてみると、節分には不思議なことがいっぱいです。

どれも節分のたどった複雑な歩みを見れば、「なるほど!」と思うこと間違いなしです。

そこで今回は、じっくりと節分の歴史をたどってみたいと思います。

「(豆まき)」(豊川芳国、1825 大英博物館)の画像。
【「(豆まき)」豊川芳国、1825 大英博物館】

そもそも節分とは「二十四節気」のうち立春・立夏・立秋・立冬のそれぞれの前日をいい、文字通り季節の節目・変わり目を指す言葉です。

春が来る喜びが大きいためか、古代より春の節分をとりわけ重視してきました。

二十四節気は太陽の1年を太陽の動きに合わせて24の気に分類し季節を表す方法で、古代中国で成立し、平安時代初め頃に日本にもたらされたのです。

立春、啓蟄(けいちつ)、春分、夏至、大暑、立秋、冬至、大寒など、今でも日常的に使っているものもあります。

このように、春夏秋冬の季節は、平安時代から太陽の動きによって決めていました。

「(春のつどひ)」(歌川豊国(初代)、1791~94 メトロポリタン美術館)の画像。
【「(春のつどひ)」歌川豊国(初代)、1791~94 メトロポリタン美術館】

一方で、日本では古代から明治5(1872)年まで月の運行に合わせた暦が用いられてきました。

つまり、一年の始まりは月の満ち欠けを基準に決められていました。

これがいわゆる旧暦です。

鳥越神社の豆まきの光景の画像。
【鳥越神社の豆まきの光景】

このように、太陽の動きに合わせたカレンダーと月の動きに合わせた暦を合わせて使うやり方を、太陽太陰暦といいます。

これは、古代シュメールで誕生した暦で、季節の変化を的確につかむことができるので農業に大変役立ち、ユーラシア大陸の農業社会で広く使われてきました。

ここで大事になってくるのが、季節が冬から春に変わる日と、新しい年が来る日が別の日である事実です。

この二つは数日のずれしかなく、時には春が先に来て、それから新しい年になることもありました。

そして肝要なのは、冬から春に季節が変わるのに伴う行事と、新しい年が来たことに伴う行事が元来別々に存在したことです。

豆まきのポスターの画像。
【豆まきのポスター(銀杏岡八幡神社) 節分と追儺、豆まきの三つが記されています。】

元来別々に存在した行事、すなわち、日本古来の風習が仏教儀礼に取り入れられた修正会(しゅしょえ)・修二会(しゅにえ)と、中国由来の追儺、陰陽道による節分節の、大きく三つの行事がそれぞれに影響し融合した結果、現代の節分が生まれました。

次回では、三つの行事を それぞれ順に見ていきましょう。

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