親敬死す【維新の殿様 生駒家・矢島藩(秋田県)編⑥】

前回まで見てきたように、多くの苦難を乗り越えて、ついに始まった親敬の藩政、しかし事態は思わぬ方向に激変します。

「廃藩置県」(『明治天皇聖徳大鑑』明治天皇聖徳奉賛会編(明治天皇御写真帖刊行会、1936)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「廃藩置県」『明治天皇聖徳大鑑』明治天皇聖徳奉賛会編(明治天皇御写真帖刊行会、1936)国立国会図書館デジタルコレクション】

版籍奉還

矢島藩が成立したすぐあとの明治2年(1869)1月20日、明治維新を主導した長州、薩摩、土佐、肥前の藩主が連署して天皇に封土と領民を返還する建白を行いました。

すると、全国の諸侯もこれに倣って続々と建白を提出して続きます。

これらの建白を受けて明治政府は6月に奉還聴許を決定、ここに版籍奉還が行われたのでした。

急激な変化による反動を恐れた明治政府は、藩主を知藩事に任命するだけでなく、数々の特権も従来どおり認めて変革は表面的で形式面のみにとどめています。

こうして親敬は藩主の地位を得てからわずか7ヶ月でこれを失い、新たに矢島藩知藩事に任命されると同時に華族に編入される栄誉を得たのでした。

一見したところ版籍奉還は藩主から知藩事に名前が変わっただけのように見えますが、実は大きな変化が隠されています。

もともの藩主は幕府から認められた独立した存在なのに対して、知藩事は天皇が任命する官吏、天皇の意向でいつでも交代させることができる役職となっていたのです。

この小さな変化は、徳川幕藩体制下で定着していた地方分権が中央集権へと激変する導火線となるのでした。

「明治天皇御衣冠姿」(『明治天皇聖徳大鑑』明治天皇聖徳奉賛会編(明治天皇御写真帖刊行会、1936)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「明治天皇御衣冠姿」『明治天皇聖徳大鑑』
明治天皇聖徳奉賛会編(明治天皇御写真帖刊行会、1936)
国立国会図書館デジタルコレクション】

廃藩置県

明治新政府による中央集権国家成立への取り組みはいよいよ強化されていきます。

明治4年(1871)4月には政府軍1万人を編成し、この武力を背景に7月には詔勅を以て藩を廃止して府県制を敷く布告がなされました。

これが廃藩置県で、すべての藩が廃止されて3府302県が置かれたのです。

ここに成立からわずか2年8ヶ月で矢島藩は消滅したのでした。

そして廃藩置県と同時に旧知藩事は東京に集められましたので、親敬も矢島を離れて東京に居を移したのです。

矢島県の成立と秩禄処分

こうして明治4年7月14日に旧矢島藩領を継承した矢島県が誕生します。

当時の戸数3,031、人口1万5,280の小さな県でしたが、明治11年2月に秋田県に統合されてしまいます。

そしてさらに、明治9年(1876)には秩禄処分が断行されました。

これは、明治2年(1869)の版籍奉還に際して、領国と引き換えに与えられた家禄と、戊辰戦争の功績で与えられた賞典禄について、これらを金禄公債の支給と引き換えで廃止するというものでした。

先祖から受け継いできた領国に代わる家禄はもちろん、命がけの働きで手にした賞典禄1,000石はわずか7年間で廃止となってしまったのです。

苦労の末に作り出した藩がわずかな期間で消滅し、家禄と賞典禄が廃止される状況を目の当たりにした親敬の胸中はいかばかりだったでしょうか。

従五位生駒親敬

版籍奉還の後、親敬の行動はほとんど記録が見当たりません。

わずかに明治4年頃かと思われる、康済義社設立において親敬の名が出てきます。

それによると、親敬が得た賞典禄から資金を藩士に下賜、これを基に藩士の有志が康済義社を創設し、養蚕製糸を始めています。

そして明治8年(1875)には事業が正式に認可されて、地域の産業振興に貢献しています(残念ながら明治17年に解散)。

親敬死す

明治4年以降、親敬の動静は見えなくなってしまいます。

東京の下谷竹町に与えられた邸宅で穏やかな暮らしを取り戻したのでしょうか。

海禅寺の画像。
【海禅寺】

そして明治13年(1880)9月9日に下谷竹町の邸宅で、親敬は病気にかかって急逝します。年齢はわずか32歳、あまりにもは早すぎる死でした。

墓所は東京都台東区松が谷三丁目の海禅寺(写真)で、幕末の勤皇家・梅田雲浜の墓所があることで知られる名刹です。

彼の死後、その功績によって明治29年9月に従四位が贈られました。

「生駒親敬」(『武家華族名誉伝 上』子安信成著・発行、明治13年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「生駒親敬」(『武家華族名誉伝 上』子安信成著・発行、明治13年 国立国会図書館デジタルコレクション)】

そして親敬は尊王一図の武勇の人として人々の記憶に残ったようで、戦前に編纂された人名録の多くに掲載されています。

また、明治元年末~2年初頭に矢島藩成立を記念して浅草の大代地で撮影したポートレイトは現在でも数々の本や雑誌に掲載されて、歴史好きにはよく知られた存在といえるでしょう。

生駒親敬(Wikipedia生駒親敬より)の画像。
【生駒親敬(Wikipedia生駒親敬より)】

私も、誇らしげな表情の中に、どこかあどけなさが残る親敬の顔が大好きです。

きっとこの時が一番幸せだったのかなあ、などとその写真をみる時には何だか切ない気持ちになるのでした。

突然この世を去った最後の殿様、生駒親敬。

次回では、あとに残された江美夫人の奮闘を見てゆきたいと思います。

なお、生駒江美については「江美子」とする表記も見られますが、本文では『平成新修旧華族家系大成』に準拠して、江美の名で統一しています。

引用文献:『秋田戊辰勤王史談』宙外後藤寅之助編1915

参考文献:『武家華族名誉伝 上』子安信成1880、

『出羽国風土記 巻之七』荒井太四郎1884、

『大日本人名辞典』大日本人名辞典刊行会1886、

『由利郡地志』由利郡教育会1894、 

『新撰秋田県史談』誉田義英(秋穂堂、1894)、 

『秋田沿革史大成 下』橋本宗彦(橋本宗一、1896)、 

『秋田県史』秋田県1915~17、 

『贈位諸賢伝 一』田尻佐編(国友社、1927)、 

『秋田の土と人 土の巻』安藤和風編(秋田郷土会、1931)、 

『明治過去帳〈物故人名辞典〉』大植四郎(東京美術、1935)、 

『角川地名大辞典 5秋田県』角川地名大辞典編纂委員会(角川書店、1980)、 

『江戸幕府旗本人名辞典』石井良助監修・小川恭一編著(原書房、1989)、 

『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館華族家系大成編輯委員会編(霞会館、1996)、 

『藩史大事典』木村礎・藤村保・村上正編著(雄山閣、1989)、 

『江戸時代全大名家事典』工藤寛正(東京堂出版、2008)、

『〈華族爵位〉請願人名辞典』松田敬之(吉川弘文館、2015)

1 個のコメント

  • 1900年以前に亡くなった歴史人物の寿命と死因について調べております。
    生駒親敬氏について最も情報量の多い記事でした。死因(病名)については言及がありませんが、やはり不明なのでしょうか。もし、手掛かりになる情報がございましたら教えていただければありがたく存じます。よろしくお願いいたします。

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