天童藩誕生【維新の殿様・織田家出羽国天童藩(山形県) ⑥】

前回は高畠藩時代の織田家をみましたが、享和の村上郡一揆が起こるなど、藩政の危機は深まるばかりでした。

今回は、この危機に立ち向かうべく、織田家が天童に本居を移して天童藩が誕生するところをみてみましょう。

織田信美(のぶみ・1793~1836)

織田信美は、織田家八代当主・信浮の子として寛政5年(1793)に生まれました。

父・信浮の死により文政元年(1818)12月に家督を相続します。

そしてついに、天保元年(1830)、九代藩主信美は藩庁を天童に移す決断をししたのです。

その理由はのちに見るとして、幕府の許可を得ると、さっそく天童の舞鶴山西麓において陣屋構築に着手、翌天保二年(1831)8月には藩主が天童に入り、ここに天童藩が誕生しました。

この天童への引っ越しの経費は藩の払米三千俵ともいわれ、藩財政を大いに圧迫したことは言うまでもありません。(『物語藩史』)

事情が事情とはいえ、どうしてこの時期に信美は天童に移る決断をしたのでしょうか?

この謎を解くために、次回は天童がどういう場所なのかを見ていきたいと思います。

東村山郡天童付近、昭和23年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M894-19〔部分〕) の画像。
【東村山郡天童付近、昭和23年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M894-19〔部分〕) 画面中央やや下にある山が舞鶴山で、そのすぐ右が天童城下町。左端の蛇行する川が最上川。】

山形県の概要

山形県は、東北地方の中央をお奥羽山脈が縦断する西側に当たっています。

奥羽山脈に沿って、南から米沢、山形、最上の盆地が連なる北西に河口部に庄内平野が広がっており、これを最上川が南北を貫いて日本海にそそいでいるのです。

また、地形に対応するように、米沢盆地には置賜郡、山形盆地には村山郡、最上盆地には最上郡、庄内平野には出羽郡が古代から置かれました。

山形、最上、庄内は戦国時代の終わりから江戸時代初めまで最上家山形藩57万石の支配下にありましたが、元和8年(1612)に御家騒動によって改易となると、最上盆地には戸沢家新庄藩、庄内平野には酒井家鶴岡藩が江戸時代初めから幕末まで領していました。

いっぽう、米沢盆地には豊臣秀吉によって越後から移った上杉家米沢藩が幕末まで領主となって、米沢、最上、庄内は一貫した藩政のもと、藩風が隅々までいきわたることとなったのです。

これに対して山形は、最上家改易の後は鳥居家が22万石で山形に入ったものの、その後次第に山形藩が縮小して幕府領や上山藩などの諸藩が置かれて細分化し、幕末には16あまりの諸藩・分領に分かれるこことなり、とくに郡中心部は領地錯綜の状態にありました。(『山形県の歴史』)

天童とは

そんな山形県の村山郡の中で、天童とはどのような場所だったのでしょうか。

天童は、奥羽山脈から東へ流れ出た乱川と立合川との間を倉津川と押切川が流れて、巨大な複合扇状地を作り上げたところに当たっています。

扇状地末端の湧泉帯から西を流れる最上川に沿う平野部は水田地帯、扇状地上の畑作地帯、奥羽山脈につながる山地と並ぶ地形となっていているのです。

平野にそびえたつ独立峰・舞鶴山山頂には、中世天童城が築かれ、天童氏の拠点でしたが、最上義明に滅ぼされました。

天童城址(『山形県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第2輯』山形県編(山形県、1927)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【天童城址『山形県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第2輯』山形県編(山形県、1927)国立国会図書館デジタルコレクション 】

その後、寛永年間(1624~44)に羽州街道が整備されると、天童は宿場町として発展していきます。

西方には須川にある寺津河岸というすぐれた川港があって最上川舟運と接続しているうえ、奥羽山脈を横断する二口峠越と関山街道によって仙台方面とも結ばれていた天童は、交通の要衝として、商業的にも発展していったのです。

ひと月に1・3・6・9のつく日の合計12日間も市が立つ日があったうえに、さらには馬市、ベニバナの開花期には紅花市もたつという盛況ぶりでした。

ここに目を付けて近江商人の日野・中井家が支店・日野屋を文化元年(1804)に開店して金融と油絞り業を営むなど、天童は地域の商業的中心地として繁栄したのです。(『地名大辞典・山形』)

「最上川帆舩」(『仁山智水帖』光村写真部、明治35年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「最上川帆舩」『仁山智水帖』光村写真部、明治35年 国立国会図書館デジタルコレクション 】

天童藩誕生

ここまでみたように、天保二年(1831)8月は織田家九代・信美藩主が天童に入り、天童藩が誕生しました。

その理由は、それまで藩庁を置いていた高畠に比べて天童が豊かであったうえに統治上も都合がよいというものでした。

そして藩財政は危機的状態であったのに、くわえて移転には払米三千俵もの経費がかかって、藩財政を大いに圧迫したことは言うまでもありません。(『物語藩史』)

しかし、信美は天保7年(1836)、飢饉のさなかに在藩8年44歳の若さで没してしまいます。

天童城下町付近、昭和31年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M681-2-46〔部分〕) の画像。
【天童城下町付近、昭和31年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M681-2-46〔部分〕)  】

織田信学(のぶみち・1819~1891)

織田信学は文政2年(1819)11月3日、信美の子として生まれ、父の死によって天保7年(1836)に家督を相続しました。

幸運なことに、嘉永元年(1848)には領地交換により、置賜郡の領地が天童周辺領地に交換されたのです。(『全大名家辞典』『三百藩藩主人名辞典』)

こうしてすべての領地が天童周辺に集まり、長年の懸案が一応解決されました。

天童への引っ越しや信学への代替わりの間にも藩財政の悪化は続き、家臣の俸禄を借り上げる引高制も導入から半世紀、しかも引高の率はどんどん上がってついに六割にも及んで、家臣の困窮は目を覆うばかりになったのです。(『藩史大辞典』)

織田信学(『山形県史 巻4』山形県内務部編(山形県内務部、大正9年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【織田信学『山形県史 巻4』山形県内務部編(山形県内務部、大正9年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

もう待ったなしの藩政改革、はたして天童で藩財政の立て直しはできたのでしょうか?

次回からは、天童藩の貧乏脱出作戦をみていくことにしましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です