蟻の熊野詣【紀伊国新宮水野家(和歌山県)4】

前回は、新宮と新宮藩水野家の歴史を年表形式でいっきにみてきました。

そこで今回から、新宮と新宮藩水野家の長い歴史の中でもポイントを絞ってみていきたいと思います。

まずは新宮の歴史のはじまり、熊野詣からみてみましょう。

熊野のはじまり

紀伊半島南部の熊野は、奈良時代以来、山林修行の地として知られてきました。

また、天平神護2年(766)、熊野牟須美神と速玉神にそれぞれ4戸の封戸が与えられており、このときまでに、のちの熊野本宮と新宮が成立していたことがわかります。

牟須美(結・夫須美)神は、奈良時代には本宮の神だけを指していましたが、平安時代中期以降には那智の神を指すように変化しています。

那智一の滝(『熊野史 小野翁遺稿』小野芳彦(和歌山県立新宮中学校同窓会、1934)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【那智一の滝『熊野史 小野翁遺稿』小野芳彦(和歌山県立新宮中学校同窓会、1934)国立国会図書館デジタルコレクション 】

熊野三山の誕生

このように、本宮・新宮・那智の神は、本来は別々の神でしたが、平安時代中期以降には、三神を相互にまつりあう形をとるようになって一体化したうえに、仏教色が加わって熊野三山あるいは熊野三所権現と呼ばれるようになったのです。

熊野三山と呼ばれるに伴って、本宮・新宮の呼び名も現れて定着しました。

熊野詣のはじまり

熊野詣の最初の例とされるのは、宇多法皇による延喜7年(907)の参詣と、花山法皇による寛文2年(986)あるいは翌水涎元年(987)の参詣は、まさに熊野三山が成立した時期のものです。

その後、11世紀になると、貴族の参詣がしばしばみられるようになり、熊野参詣がしだいに盛んとなっていったのがわかります。

白河院御影(国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【白河院御影 国立国会図書館デジタルコレクション】

その後、白河上皇の寛治4年(1090)第一回参詣と、永久4年(1116)第二回参詣をきっかけとして、熊野詣が上皇や女院、貴族の間で大流行することになります。

国家行事化

ところで、白河上皇は合計9回も熊野詣したのですが、第二回以降はおよそ一年半ごとに行う熱の入れようでした。

さらに、続く鳥羽上皇もこのペースを引き継いだので、熊野詣の回数は21回にも及んだのです。

こうして、熊野詣が国家行事となって、複数の上皇や女院が同時に参詣する両院行幸や三院行幸までもが行われるようになって、規模がどんどん大きくなっていきました。

また、その回数も増加して、後白河上皇の34回でピークに達します。

これほど頻繁に熊野詣を行ったのも、修験道の修行の回数が多いほど臈を積むという考えがあったため、参詣回数を競うようになったからでした。

後白河上皇(Wikipediaより20220210ダウンロード) の画像。
【後白河上皇(Wikipediaより) 】

蟻の熊野詣

こうして国家行事と化した熊野参詣は、突然終わりを迎えます。

承久3年(1221)の承久の乱で、熊野を統括していた田辺別当家が後鳥羽上皇に味方して鎌倉幕府打倒に力を貸したのです。

このため、田辺別当家は壊滅的被害を受けたうえ、上皇や女院の参詣が行われなくなってしまったのでした。

さらに、貴族の参詣も衰退していきますが、これに代わって地方の武士たちが熊野詣を行うようになります。

南北朝期には、武士たちが配下の住民を連れて熊野詣を行うようになり、さらには民衆が独自に熊野詣を行うようになっていきました。

こうして熊野詣は活発化し、「蟻の熊野詣」といわれるほどに多くの人々が熊野三山を目指すようになったのです。

「那智参詣曼荼羅」(Wikipediaより20220210ダウンロード)の画像。
【「那智参詣曼荼羅」(Wikipediaより)】

ここまで平安時代後期に熊野詣が盛んになるまでをみてきました。

次回は、熊野別当から戦国大名堀内氏の時代をみてみましょう。

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