長育の華麗なる交遊【勝山藩小笠原家編(福井県)㉞】

前回は、長育の思想をわかりやすく体験できる形にした「尚武須護陸」をみてきました。

今回は見方を変えて、長育の築き上げた華麗な人脈を概観してみましょう。

長育の交友関係

ここまでみた来たように、長育は幅広い人脈をつくることに成功しました。

一つ目は、親族である越前大野藩土井利剛子爵や田沼意尊、さらには若尾一族と、実弟の柳生俊久子爵といった人たちです。

二つ目は、職務である東宮侍従を通じてつながる人々。

ここには東宮の養育にあたった宮内省御用掛・勘解由小路資生や、ともに明宮侍従を務めた日野資秀伯爵、有馬道純子爵、徳大寺公弘、ともに東宮侍従の大宮以季子爵などが挙げられます。

勘解由小路資生(Wikipediaより20211012ダウンロード)の画像。
【勘解由小路資生(Wikipediaより)】

三つ目に、出身大学の慶應義塾関連です。

塾長の福沢諭吉や教授陣はもちろん、この時期は政府の方針で60名を超える若い家族が入塾していますので、ここで長育は多くの知己を得たことでしょう。

四つ目は、子爵会委員を通じてのつながりで、立花種恭、堀田正養などの活発に活動していた子爵たちですが、これは勘解由小路資生や日野資秀などとも近い人たちです。

最後には、華族同方会と子爵会で知り合ったと思われる谷干城・鳥尾小弥太・三浦梧楼・曾我祐準といった軍人華族。

とくに曾我は、東宮(のちの大正天皇)の御教育主任を務めていますので、長育とはもともと旧知の間柄だったと思われます。

また、長育のあとを継いで『華族同方会報告』を発行した肥後国熊本出身の漢学者・古城貞吉のように、学者たちにも長育のネットワークが広がりつつあったとみてよいでしょう。

鳥尾小弥太(Wikipediaより20211012ダウンロード)の画像。
【鳥尾小弥太(Wikipediaより) 長州藩士、奇兵隊に加わり戊辰戦争で活躍。維新後は元老院議官などを務める。三浦梧楼とともに、反山県有朋の先鋒として活動しました。】

有名人・長育

こうした幅広い人脈を作り上げた長育は、子爵の中でも名が知られるようになってきたようです。

その証拠ともいえそうな『朝日新聞』明治24年(1891)7月29日付東京版朝刊に掲載された記事をみてみましょう。

それによると、福岡県在住の大石新太郎という人物が、3月28日に牛込区北町13番地の長育邸を訪問して金の無心、長育は大石に面会するものの、全円借用を断ったとあります。

また、『読売新聞』明治23年(1890)4月24日と25日付朝刊に、「頃日来当家名義を以て全円賃借等諸方へ申込あるとの伝聞・右ハ当家に於て一切関係無之に付此段広告す」という広告記事を掲載しているのも、長育の名が知られ始めていた副産物なのかもしれません。

若尾家との関係

ここで、のちに小笠原家と特別な関係となった若尾家についてみておきましょう。

山梨県出身の起業家若尾逸平とその弟幾造が起こしたさまざまな家業の集まりは、「若尾財閥」とも呼ばれて、明治時代には知らぬものがない存在でした。

若尾逸平(『甲府市制四十年記念誌』甲府市 編集・発行1928、国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【若尾逸平『甲府市制四十年記念誌』甲府市 編集・発行1928、国立国会図書館デジタルコレクション 】

若尾逸平

その始まりの若尾逸平は、行商から身を起こし、横浜が開港すると貿易商となり、で生糸・水晶などを商って巨万の富を得たのです。

明治維新後には横浜の事業を事業パートナーだった弟の幾造に譲り、自らは松方デフレのもとで再び巨益を得て土地を集積し、山梨県を代表する地主になりました。

さらに銀行業にも進出、明治20年代に入ると株式取得に乗り出して、東京電燈や東京馬車鉄道(のちの東京電車鉄道)を「乗っ取り」、財界での地位を確立しています。

また、初代甲府市長や高額能全社貴族院議員も務める名望家だったのです。

こうして逸平は、「甲州財閥」のリーダーとなって、東武鉄道の根津嘉一郎、株仲買の小池国三、富士製紙の小野金六、三渓園を残した原富太郎など、多くの財界人を育成しました。

二代目若尾幾造(Wikipediaより20211012ダウンロード)の画像。
【二代目若尾幾造(Wikipediaより)】

若尾三家

逸平の作り上げた莫大な資産は、前にみた弟の幾造率いる横浜若尾家と、東京の資産を基にした東京若尾家、そして山梨の大地主である若尾本家に分かれるものの、同族間での結婚や養子縁組を通じてつながりを強化していました。

詮子と粲四郎

この若尾家と勝山藩小笠原家がつながるきっかけとなったのは、長育の妹・詮子が二代目若尾幾造に嫁いだことにはじまります。

さらに、長育の弟・粲四郎が明治29年(1896)1月に逸平の養子・若尾民造氏の養子となっているのですが、これは長育の没後のこと。

しかし、粲四郎が民造の養子となる前に、学習院中等科を卒業して商業学校へと進み、横浜三友商店および横浜若尾銀行に勤務しているのです。

この事実から、この養子縁組がすでに明治20年(1887)代初めに決められていたと考えるのが自然でしょう。

こうしてみると、小笠原家と若尾家のつながりは、長育が家督を相続した明治6年(1873)以降にできたものといえます。

細田粲四郎(『山梨名鑑』浅川奧次郎 編集・発行、大正15年、国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【細田粲四郎『山梨名鑑』浅川奧次郎 編集・発行、大正15年、国立国会図書館デジタルコレクション 】

若尾家と小笠原家

両家が接近したきっかけは不明ですが、若尾家が甲斐武田家の末裔と伝えられていることと、勝山藩小笠原家が甲斐武田家の流れをくむ名門であることは無関係ではないでしょう。

しかし、養子となった粲四郎の活躍のほかには、若尾家の商業・政治活動に小笠原家がかかわった形跡は見られませんでした。

このことから、名望家・若尾逸平が、華族社会とのつながりを誇示する目的があったとみてよいでしょう。

あるいは、華族社会での人脈を築きつつあった長育の今後に期待するところもあったのかもしれません。

なお、若尾家と小笠原家のその後の関係は、第38回「若尾財閥の凋落」をご覧ください。

ここまで長育の築き上げた華麗な人脈をみてきました。

広く世に知られる存在となりつつあった長育ですが、その活動は突然終わりを迎えます。

次回は、長育のあまりにも早すぎる死についてみてみましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です