江戸っ子作家を生んだ町 長谷川時雨(はせがわ しぐれ)➀

みなさんは長谷川時雨という作家をご存じでしょうか?

大正時代から昭和初期にかけて活躍し、林芙美子や円地文子など女性の作家を数多く育てた業績が評価される作家です。

じつはこの長谷川時雨、明治時代初めの東京、なかでも日本橋区(現在の中央区北部)を舞台にした作品を数多く発表、その中で町の様子を生き生きと描いているのです!

現在、連載中の「東京 橋の物語」緑橋編で、橋に近い町に江戸を代表する大店の大丸があり、かつて蔦屋重三郎の書肆があるにぎやかな街だったこと、そしてまたこの町で女流文学者の長谷川時雨が生まれたことを書きました。

そこで今回は、長谷川時雨という作家についてみていきたいと思います。

明治時代の「緑橋」(『日本橋区史-参考画帖第1冊』東京市日本橋区編(東京市日本橋区、1916)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【明治時代後期の緑橋 「緑橋」『日本橋区史-参考画帖第1冊』東京市日本橋区編(東京市日本橋区、1916)国立国会図書館デジタルコレクション】

長谷川時雨(1879~1941)は、明治12年10月1日に東京府日本橋区通油町1番地(現在の中央区大伝馬町3丁目)に生まれました(9月28日あるいは同29日に誕生とする異説があります)。本名やす、通称は康子。

時雨の父の深造は日本最初の免許代言人(弁護士)で、伊勢から江戸に出て呉服御用商となった長谷川卯兵衛の次男、母は御家人湯川金左衛門の娘 多喜(戸籍上は多起)、やす(のちの時雨)を筆頭に、マツ、マル、フク、虎太郎、二郎、はる、の六人兄弟。

両親や父方祖母の小りんは、時雨を溺愛し、病弱ではにかみ屋だった彼女のことを愛情こめて「アンポンタン」と呼んでいました。

「東京名所 大伝馬町大丸呉服店」小林清親(福田熊二良、明治14年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【時雨が生まれた頃の町の様子 「東京名所 大伝馬町大丸呉服店」小林清親(福田熊二良、明治14年)国立国会図書館デジタルコレクション】
現在の住所表示板に時雨生家、緑橋、蔦屋重三郎の書肆、大丸のそれぞれの跡地を記入した地図の画像。
【長谷川時雨生家跡 現在の住所表示板に記入した地図】

それではまず、時雨が生まれた町について詳しく見ていきましょう。

時雨は自分が生まれた町をこう記しています。

「そこで、アンポンタンと親からなづけられていた、あたしというものが生れた日本橋通油町というのは、たった一町だけで、大門通りの角から緑橋の角までの一角、その大通りの両側が背中にした裏町の、片側ずつがその名を名告なのっていた。私は厳密にいえば、小伝馬町三丁目と、通油町との間の小路の、油町側にぞくした角から一軒目の、一番地で生れたのだ。」 

「私の生れたところは北新道、またはうまや新道とよばれていて、伝馬町大牢御用の馬屋が向側小伝馬町側にあった。」(『旧聞日本橋』)

現在のうまや新道の画像。
【長谷川時雨の生家があった うまや新新道を南から望む】
「大門通」『江戸名所図会』(斎藤長秋編(博文館、1893)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「大門通」(『江戸名所図会』斎藤長秋編(博文館、1893)国立国会図書館デジタルコレクション)】

江戸後期から明治時代初め頃の通油町近辺は、江戸随一の賑わいだった本町通りと、花柳界からのびる大門(おおもん)通りや江戸有数の歓楽街のメインストリートだった人形町通りが交わる場所で、江戸でも有数の繁華な町でした。

町には蔦屋重三郎の書肆に代表される出版関係の店をはじめ、武具、馬具、蝋燭、紅白粉、諸国銘茶、鉄釘銅物、呉服、小間物などじつにさまざまな商売をする店がひしめき合うような町で、その象徴が「大門(おおもん)通りを仲にはさんで四ツ辻に、毅然と聳そびえていた大土蔵造りの有名な呉服店」の大丸でした。

『東京名所之内 通旅篭街大丸呉服店繁盛之図』(梅堂国政(具足屋福田熊治郎、明治年間)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【『東京名所之内 通旅篭街大丸呉服店繁盛之図』(梅堂国政(具足屋福田熊治郎、明治年間)国立国会図書館デジタルコレクション)】

この「大丸」江戸店は駿河町の越後屋、日本橋の白木屋と並ぶ江戸を代表する呉服の大店で、江戸を代表する光景として浮世絵にも描かれるとともに、長谷川時雨の作品にもよく登場しています。

この大丸呉服店江戸店については別稿を用意していますので、そちらをご覧ください。

「明治十四年二月十一日大火 久松町ニテ見る出火」(『清親画帖』小林清親1878 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【写真は「明治十四年二月十一日大火 久松町ニテ見る出火」(『清親画帖』小林清親1878 国立国会図書館デジタルコレクション)】

江戸有数の繁栄を誇った時雨の故郷ですが、火事の多いことで有名な神田にほど近いことから、延焼・罹災することも多く、時雨が生まれる前の明治6年(1873)12月9日の火事では大丸が類焼していますし、千鳥橋編で見た明治14年1月26日の「松枝町大火」では時雨の生家も焼失しています。

蔦屋の店(『東都遊』淺草庵市人著・葛飾北斎画、享和2年(1802)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【蔦屋の様子(『東都遊』淺草庵市人著・葛飾北斎画、享和2年(1802)国立国会図書館デジタルコレクション)】

時雨が生まれた町はまた、江戸の文化が色濃く残る場所でもありました。

芳町の花柳街が近いのはもちろん、先に述べたように蔦屋が店を構えていた関係で浮世絵師の喜多川歌麿や東洲斎写楽、戯作者の十返舎一九や滝沢馬琴、浮世絵師西村重長、奥村政信、為永春水などがこの町に住んでいました。

明治時代はじめまでこの状況は続いたようで、長谷川時雨の作品にも歌川豊国(三代)や国輝がこの町に暮らしていたことが記されています。

蔦屋重三郎については別稿を用意していますので、こちらをぜひご覧ください。

また、時雨を溺愛した父方祖母の小りんは大の芝居好きでしたので、彼女はことあるごとに時雨を連れて芝居へと通ったのです。

芝居町とも呼ばれた堺町は人形町通りを曲がってすぐの近さでしたので、時雨は幼い時より一流の芝居を見て育っていったのです。

祖母や母の教育方針で学校へは上がらず、寺子屋での読み書きそろばんに裁縫をはじめ、長唄、日本舞踊、二絃琴、生け花、茶の湯と、江戸文化と教養をしっかりと身に着けることになりました。

時雨の生家跡前から日本橋方面を眺めた画像。
【時雨の生家跡から日本橋方面を望む】

ここまで見てきたように、時雨は江戸のおもかげが強く残る街で芝居に芸事、さらには火事まで、まさに江戸文化にどっぷりとつかって育っていったのです。

次回では、江戸文化の申し子ともいえる時雨の青春期をじっくりと見ていきたいと思います。

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