高須藩時代【勝山藩小笠原家編(福井県)⑮】

前回みたように、苦難の末、ようやく徳川将軍家の信頼を得るものの、当主が次々と夭折する不幸に見舞われた小笠原家でした。

そこで今回は、幼くして家督を継いだ小笠原貞信の高須藩時代をみてみましょう。

小笠原貞信(さだのぶ・1631~1714)

小笠原貞信は、寛永8年(1631)8月24日に旗本の高松貞勝の長男として美濃国石津郡多良に生まれました。

生母が二代信之の娘でしたので、叔父政信の世子が早世したために寛永16年(1639)9月に政信の養嗣子となります。

寛永17年(1640)に養父政信が急逝したために家督を相続しましたが、襲封と同時に美濃国高須2万2,777石へと転封となったのです。

これは、前にみたように下総国関宿は江戸城の北の守りとなる重要な城でしたので、藩主が幼少だと守備に不安が残るためだといわれています。

こうした例は、越前松平家の松平光長の場合など、江戸時代前期には珍しいものではありません。

美濃国高須付近、昭和23年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-R1205-48〔部分〕) の画像。
【美濃国高須付近、昭和23年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-R1205-48〔部分〕 左端に見えるのが揖斐川で、中央が高須城址と旧城下町。)

高須城

さて、高須城(岐阜県海津市)は南北朝時代の暦応元年(1338)築城と伝わる古い城です。

秀吉のもと高木盛兼が1万石で入封し、関ケ原の合戦の折は西軍についたため、東軍に攻められて落城しています。

その後、徳永寿昌が入封すると、慶長6年(1601)から堀や石垣の普請を行って大改修したうえ、家中屋敷や町家を整備しました。

寿昌のあとを継いだ昌重は、大坂冬の陣で松平忠明の麾下で後藤又兵衛(基次)らと戦い戦功をあげています。

その後、寛永4年(1627)大坂城改築にあたって、二の丸石垣普請を命ぜられました。

ところが、期日近くになって石垣が崩れ、完成が遅れたことが将軍秀忠の怒りに触れて、改易されてしまったのです。

徳川家光像(Wikipediaより20210831ダウンロード)の画像。
【徳川家光像(Wikipediaより) 貞信が高須へと国替えになったのは、三代将軍家光の時代。まだ戦国の遺風が残るころでした。

小笠原家高須藩

徳永氏5万3,700石が改易されたのち、その所領は天領となり、高須城は空城となっていました。

そして貞信が高須に入封した時には、城は10年以上空城だったので、ところどころ痛んだ状態だったといいます。

そこで貞信は城を補修するとともに城下町の復興に取り組み、延宝9年(1681)には「繁昌の城と相成り、万民安堵」するまでになったのです。

とはいえ、藩主が幼少であるとして城主格は取り上げられての関宿からの移封でしたので、あくまでも陣屋としての整備にとどまったのはいうまでもありません。

さらに、貞信は新田開発も盛んに行って、有尾新田800石、太田新田1,000石などの開発に成功します。

しかし、この高須の地は大水害がよく発生しており、とこに延宝2年(1674)5月の被害が甚大でした。

これは、新田開発した場所の多くが遊水地の機能を果たしていた野方を開発したことも一因なのでしょう。

美濃国高須藩地域、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M624-244)の画像。
【美濃国高須藩地域、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M624-244) 高須藩領は、揖斐川(画面左)と長良川・木曽川(画面右)という大河に挟まれた低地で、水害が頻発しました。堤防に囲まれた特徴的な地形「輪中」でも知られています。】

これに対して貞信が元禄4年(1691)7月に領地替えを願い出たところ、8月に越前国勝山へ転封となったのです。

幼くして襲封したために、下総国関宿から美濃国高須へと移封となった小笠原貞信は、ようやく高須藩の藩政を確立しました。

しかし、度重なる水害をきっかけに、国替えを願い出た結果、越前勝山へと転封されたのです。

次回は、貞信の越前勝山入封をみてみましょう。

《小笠原家高須藩時代については、『三百藩藩主人名事典』『江戸時代全大名家事典』『藩史大事典』『日本地名大事典 岐阜県』に基づいて執筆しました。》

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