4月13日

石川啄木(Wikipediaより20210321ダウンロード)の画像。
【石川啄木(Wikipediaより)】
残雪の岩手山(『小岩井農場五拾周年記念』小岩井農牧株式会社 編集・発行、1941 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【残雪の岩手山、戦前の情景です。啄木の代評価の一つ「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」を思い起こさせてくれます。】

啄木忌

4月13日は、明治45年(1912)歌人の石川啄木が亡くなった日です。

明治19年(1886)岩手県南岩手郡日戸村(現在の盛岡市日戸)で生まれた啄木は、盛岡中学を中退して上京します。

早くから明星派のロマン主義的詩人として知られました。

しかし不遇で北海道や東京を転々とし、貧困と病苦に苦しみつつも生活の感情を独自のスタイルで詠んでいます。

ユーモアあふれる独自の作品は、死後に大きな反響を呼ぶことになったのです。

盛岡城(『南部利直公』南部利直公三百年祭記念出版会 編集・発行、1931 国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【幕末の盛岡城。啄木の代表歌の一つ「不来方の お城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心」の舞台となった盛岡城。明治初めにすべての建物が撤去されています。】

間宮林蔵没日

天保15年2月26日(1844年4月13日)は、探検家の間宮林蔵が亡くなった日です。

間宮林蔵(『間宮林蔵・北海の先駆者』佐佐木千之ほか(三省堂、1942)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【間宮林蔵】

伊能忠敬に測量を学び、文化5年(1808)から数度にわたって樺太(サハリン島)を探検し、樺太が島であることを世界で初めて確認しました。

このことはシーボルトによって世界に間宮海峡の名で紹介されました。

晩年は幕府の隠密として働き、シーボルト事件の密告者とも言われています。

間宮海峡(ワゲー眺望)(『北蝦夷地部 巻1』間宮林蔵 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【間宮海峡(ワゲーの眺望)】

巌流島の決闘 / 決闘の日

慶長17年4月13日(1612年5月13日)、関門海峡に浮かぶ小島・巌流島で、剣豪宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘しました。

結果は皆さんもご存じの通り、勝負にたけた武蔵が小次郎を倒しています。

危機一髪、宮本武蔵と佐々木岸流の接戦(『剣道達人腕比べ』冨永堅吾(廣文堂、大正15年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【危機一髪、宮本武蔵と佐々木岸流の接戦『剣道達人腕比べ』冨永堅吾(廣文堂、大正15年)国立国会図書館デジタルコレクション 】
巌流島、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M114-9〔部分〕) の画像。
【巌流島(画面中央)昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M114-9〔部分〕)海上交通の要地として、要塞地帯に指定された巌流島(船島)付近は、戦前、写真撮影が禁止されていました。】

昨日(4月12日

明日(4月14日

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