4月22日・今日なんの日?

『言海』刊行日

4月22日は、明治24年(1891)に国語辞書『言海』が発行された日です。

初版で本編4冊からなるこの辞書は、明治22年(1889)5月15日の第一冊(あ~お)の刊行にはじまり、この日の第四冊(つ~を)で完成しました。

『言海』は五十音引きスタイルの国語辞書で、文語体で記されています。

収録語数は39,103語で、本編のほかに漢文の「言海序」、欧米語の文法を参考に日本語を体系化した「語法指南」、索引の仕様をまとめた「索引指南」などが掲載されています。

大槻文彦(Wikipediaより20220420ダウンロード)の画像。
【大槻文彦(Wikipediaより)】

大槻文彦とは

ここで、『言海』の編者・大槻文彦についてみておきましょう。

弘化4年(1847)11月15日に江戸木挽町、現在の東京都中央区銀座で大槻盤渓の第三子として生まれました。

この大槻家は、父の盤渓は儒者・砲術家で、祖父の玄沢は幕府蕃書和解方を務めた蘭学の泰斗という学問の家です。

文彦は祖父玄沢にならって洋学を志し、幕府開成学校、大学南校などで学んで英学と数学を修めたあと、箕作秋坪の私塾・三叉学舎の塾頭になりました。

「箕作秋坪」(『苫田郡誌』苫田郡教育会編(苫田郡教育会、昭和2年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【箕作秋坪】

明治5年(1872)10月文部省に出仕すると、教科書の編纂、国語辞書の編纂とともに、宮城師範学校長と宮城県尋常中学校長、国語調査委員会主査委員と歴任しました。

この間に、明治32年(1899)に文学博士となり、明治44年(1911)には帝国学士院に推されています。

『言海』誕生までの道のり

この当時、欧米の列強国では国語辞典の作成が国を挙げて行われていました。

というのも、欧米列強では言語の統一と、それをまとめた辞書の存在が、近代国家の象徴の一つととらえられていて、明治政府としても国語(日本語)の統一と辞書つくりを行う必要を痛感していました。

このような背景があって、政府は明治8年(1875)文部省報告課の大槻文彦に国語辞典の編纂を命じたのでした。

すぐさま着手した大槻でしたが、英語辞典の翻訳を行えば事足りると考えて『英和対訳辞書』の編纂を行いましたが、たちまち行き詰ってしまいます。

そこで方針を変更し、英語辞書の体裁を流用しつつ、独自の辞書編纂に取り組む同時に、日本語文法を確立するための研究も並行して行ったのです。

明治15年(1882)に初稿をあげるものの、校閲に4年の歳月を費やして、ようやく明治19年(1886)に完成させました。

『日本辞書 言海』初版表紙(大槻文彦 編集・発行、1889 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【『日本辞書 言海』初版の表紙 】

ところが、予算不足から文部省による発行計画は取りやめとなってしまいます。

これを憂慮した大槻は、明治21年(1888)に自費出版することを条件に、ようやく文部省から原稿を下げ渡されたのでした。

ようやく、明治24年(1891)4月22日に全編を刊行することができたのです。

このあと、『言海』は近代国語辞書を確立したという高い評価を得て、改訂を重ねながら明治42年(1909)まで刊行されることになります。

『言海』の副産物

大槻は、『言海』編纂の過程で得た知識は、『広日本文典』『口語法別記』としてまとめます。

『言海』の「語法指南」を独立させた『広日本文典』は、日本語の文法書として発刊当時は一番の評価を得たほか、『口語法別記』は歴史および地理的考察が丁寧で深い点が高く評価されました。

両書とも欧米の言語学からの影響が強いものの、語学の面からみて大きな学問的業績といってよいでしょう。

大槻文彦(『言海』百六拾版、大槻文彦(吉川弘文館、1907)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【『大言海』百六拾版に掲載された大槻文彦】

『言海』完成祝賀会

『言海』の完成は、近代日本が欧米列強と肩を並べる一大成果として大々的に祝われました。

明治24年(1891)6月23日には芝の紅葉館で大々的な完成祝賀会が行われます。

出席者は、時の総理・伊藤博文をはじめ、榎本武揚(旧幕臣・政治家)、谷干城(軍人・政治家)、勝海舟(旧幕臣・政治家)、津田真道(法学者)、陸羯南(ジャーナリスト)、矢野龍渓(ジャーナリスト・小説家)など、各界の著名人が駆けつけました。

伊藤博文(下関春帆楼所蔵)(『下関春帆楼に於ける両雄の会見』大園市蔵-編・訳(明治史蹟研究会、大正14年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【伊藤博文(下関春帆楼所蔵)】

『大言海』へ

ところが大槻は、『言海』では語彙数が足りないことを不満に思うようになります。

一例をあげると、『言海』には固有名詞が収録されていません。

そこで大槻は、『言海』での編纂方針を引き継ぎつつも、語源や用例などを大幅に充実させた新たな辞書の編纂を決意します。

『言海』編纂にも協力した大久保初男の協力を得て、大槻は語彙収集、結果所収総項数9万7千あまり、『言海』に対して語彙数では2倍、内容は3倍以上という辞書の編纂に取りかかりました。

ところが、大槻は道半ばの昭和3年(1928)2月17日に82歳で亡くなってしまいます。

これを大槻の兄・如電が引き継ぐものの、この如電も辞書の完成をみることなく、昭和6年(1931)1月12日に死去。

新村出(Wikipediaより20220420ダウンロード)の画像。
【新村出(Wikipediaより)のちに『広辞苑』を編纂します。】

さらに新村出と関根正直の指導を受けながら、大久保初男が中心となり、長谷川福平はじめ冨山房編集部や新村の生徒数人が協同してようやく昭和12年(1937)に全4巻・索引からなる『大言海』を出版することができました。

この『大言海』は、改訂を重ねつつ昭和57年(1982)まで刊行をつづけました。

また、大槻文彦と松井簡治からはじまった近代的な国語辞書編纂は、新村出、金田一京助・春彦、見坊豪紀、山田忠雄、松村明から飯間浩明と、現在まで脈々と受け継がれているのです。

(この文章を執筆するにあたって、『言海』『大言海』および『国史大辞典』とWikipediaの関連項目を参考にしました。)

きのう(4月21日

明日(4月23日

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